基礎自治体旗基礎自治体章
愛称 : セルビアのアテネ
標語 : "Град по мери гра?ана
市民に合った街"
位置
セルビアにおけるノヴィ・サドの位置
座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯45度15分 東経19度51分 / 北緯45.250度 東経19.850度 / 45.250; 19.850
ノヴィ・サド(セルビア語:Нови Сад / Novi Sad - 発音: [novi? sa?d][ヘルプ/ファイル]、ハンガリー語:Ujvidek、スロバキア語:Novy Sad、パンノニア・ルシン語:Нови Сад)は、セルビア北部の都市、およびそれを中心とした自治体であり、同国北部を占めるヴォイヴォディナ自治州の州都[2]、南バチュカ郡の中心地である。街はパンノニア平原の南部、ドナウ川沿いにある。
ノヴィ・サドは、ベオグラードに次いでセルビアの第二の都市である[3]。2010年8月のデータによると、市街地には293,508人が住んでおり、街を中心としたノヴィ・サド市の人口は382,010人である[1]。市域はバチュカ地方とスレム地方にまたがっており、両地方はドナウ川で隔てられている。街の北にはドナウ=ティサ=ドナウ運河(Danube-Tisa-Danube Canal)が通過し、ドナウ川へと合流している。南ではフルシュカ・ゴーラ(Fru?ka Gora)山脈の北斜面に接している。
街は1694年に築かれたもので、ハンガリー王国の重要な戦略拠点であったペトロヴァラディン要塞からみて、ドナウ川を挟んで反対側にセルビア人の商人らが入植したのが始まりであった。18世紀から19世紀にかけて、ノヴィ・サドは商業と製造業の重要な拠点となっていった。1848年革命で破壊されたが後に復興し、セルビア人の文化的な一大拠点へと成長、「セルビア人のアテネ」の愛称も生まれた。歴史上、ノヴィ・サドは常に多民族混住の地であり、中でもセルビア人、ハンガリー人、ドイツ人が主要民族であった。現在のノヴィ・サドも多民族社会が維持されており、またセルビア経済の重要拠点であり、文化的な中心地のひとつである。 「ノヴィ・サド」の名は、セルビア語で「新しい入植地」を意味している。都市権を得たことによるラテン語名は「Neoplanta」である。地方行政で使われている公式な呼称は、以下のとおりである:
呼称
セルビア語:グラード・ノヴィ・サド(Град Нови Сад / Grad Novi Sad、ノヴィ・サド市)
ハンガリー語:ウーイヴィデーク・ヴァーロシュ(Ujvidek varos)
スロバキア語:メスト・ノヴィー・サト(Mesto Novy Sad)
パンノニア・ルシン語:ホロド・ノヴィ・サド(Город Нови Сад / Gorod Novi Sad)
マリアの名聖堂
この他に、ヴォイヴォディナ自治州の公用語に指定されているクロアチア語およびルーマニア語での呼称はいずれも「ノヴィ・サド(Novi Sad)」である。かつて、ドイツ語では「ノイシャッツ(Neusatz)」と呼ばれていた。
広義には、「グラード・ノヴィ・サド」とは「ノヴィ・サド市」を意味し、街の周りの広大な領域を含んだセルビアの行政区分のひとつである。「ノヴィ・サド」は、ノヴィ・サド市の中心をなす市街地(ドナウ川左岸の市街地と右岸のスレムスカ・カメニツァ、ペトロヴァラディンを含む)を示すこともあれば、歴史的にノヴィ・サドと呼ばれてきたドナウ左岸の市街地のみを表し、スレムスカ・カメニツァやペトロヴァラディンを含めないこともある。
日本語表記においては、「ノヴィサド」、「ノビサド」あるいは「ノーヴィ・サード」等の表記もみられる。