ノンキナトウサン
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『ノンキナトウサン』は、麻生豊の作画による日本の漫画。別題『呑気なとうさん』『のんきな父さん』。この項では、同漫画を原作とした日本の映画についても記述する。

大正時代に新聞漫画として連載開始し、昭和初期にかけて断続的に発表された。『只野凡児』と並ぶ麻生の代表的な連載作品であり、「ノントウ」の略称で親しまれた。有馬玩具博物館の1920年代のブリキ玩具サイフォンの原理で噴水を起こす『ノンキナトウサン』の福助水出しなど
概要

主人公の「ノンキナトウサン」と相棒の「隣のタイショウ」が織り成す騒動を描いた短編ギャグ漫画(連載期間のほとんどは4コマ漫画)である。失業者である「ノンキナトウサン」は、職に就こうと奮闘し、時には巡査俳優アナウンサーなどに採用されたり、大金を得て裕福な生活を送ったりするものの、再び貧乏な生活に戻る[1]

1925年(大正14年)、1946年(昭和21年)の3シリーズ・4回にわたってアニメーション映画および実写映画化された(#映画節で後述)。
沿革

もとは1923年(大正12年)4月29日から『報知新聞』の「日曜漫画」欄[2]で不定期に連載されていた『呑気なとうさん』という題名の8コマ漫画(同年5月27日号から『のんきな父さん』と題名を改め、同年の10月28日号から6コマ漫画へと変更した[3])で、同年9月の関東大震災や、それ以前の慢性不況で生活に打撃を受けた人々の心を明るくしようと、当時の報知新聞編集局長・高田知一郎が、本紙紙面に陽気な漫画の連載を検討し、新人の漫画記者であった麻生の同作品を抜擢した[4]。当時、短編コマ漫画ではジョージ・マクマナス(英語版)の『親爺教育(英語版)』(アサヒグラフ連載)が人気で、麻生は同作品に「何としても太刀打ちできそうにない[3]」と、連載開始を固辞したが、最終的に引き受けた。

同年11月26日号から『夕刊報知新聞』へ移り[2]、題表記を『ノンキナトウサン』、体裁を4コマ漫画に改め[2]、第1面の左上に毎日連載した。コマ割りふきだしなどの表現、簡略化されたキャラクター描写において『親爺教育』の影響を受けたとみられており、初期の連載ではセリフ部分が横書き・カタカナ書きとなっている[1][3]。連載を経るうちにコマ配置は2×2から、1×4の縦型に変わった[4][5]

連載開始後の『報知新聞』の発行部数は伸び、麻生は人気漫画家となった[5]。カラー版の単行本はベストセラーとなり、キャラクターを用いた広告や、人形・手拭いなどのマーチャンダイズ商品が作られるなど、大正末期の社会現象となった[6]。とぼけた雰囲気の男性が「ノントウ」と呼ばれるなど、流行語ともなった[5]。1926年(大正15年)10月、麻生のヨーロッパ歴訪のため連載を一旦終了[2]。帰国後の1929年(昭和4年)、『読売新聞』日曜版の「読売サンデー漫画」で『続ノンキナトウサン』の題で連載を再開[7]

1930年(昭和5年)3月、連載媒体が『サンデー毎日』へ移り、『ノンキナトーサン』の題で6コマ漫画となった[2]。同年6月に『読売新聞』本紙で4コマ連載に復帰し、題も『ノンキナトウサン』に戻った[2]。その一方、麻生は1933年(昭和8年)より、ノンキナトウサンの息子を主人公にしたスピンオフ『只野凡児』を『朝日新聞』で連載開始した。凡児が独身のサラリーマンとして社会で奮闘するというストーリーであった[8]

戦後の1945年(昭和20年)、麻生は『第一新聞』でふたたび『ノンキナトウサン』の連載をおこなっている[2]。麻生は1961年没のため、著作権を作者の死後70年に延長する2019年以前に著作権が終了、パブリックドメインになっている。
文化的影響

演歌師の
石田一松は、師匠・添田唖蝉坊が作った「ノンキ節」を改作し、「ノンキナトウサン節」とも称される独自の「ノンキ節」を歌った[9]

政治家・町田忠治は風貌が本作の主人公に酷似していたため、「ノンキナトウサン」「ノントウ」と呼ばれた[10]。なお、町田は、本作連載開始当時の報知新聞社社長である。

映画
竜宮参り

ノンキナトウサン 竜宮参り

監督木村白山
原作麻生豊
製作会社アヅマ映画社


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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