ノルマンコンクェスト
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バイユーのタペストリーから。 バイユーのタペストリーから。

ノルマン・コンクエスト(英語: The Norman Conquest of England)は、ノルマンディーギヨーム2世によるイングランドの征服を指す。コンクエストを日本語にし、ノルマン征服ともいう。1066年ヘイスティングズの戦いに勝利したギヨーム2世はウィリアム1世としてノルマン朝を開いた[1]ウェストミンスター寺院での戴冠式は同年12月25日)。これによりイングランドはノルマン人により支配されることとなった。

ノルマン・コンクエストはイングランドの歴史の分水嶺となり、デンマーク付近(ゲルマン人の領域)の強い政治的・文化的影響から離れ、ラテン系のフランスと政治的にも文化的にも強く関係することになる。

なお、ノルマン人はイングランド人アングロ・サクソン人デーン人)と同様にゲルマン人の一種なので、異民族というほどでもない。ノルマン・コンクエストが比較的容易に進んだ一因に、どちらの民族もゲルマン人であったという点が挙げられる。

イングランド以外のウェールズスコットランドアイルランドには、ノルマン・コンクエストの支配・影響はあまり及ばなかった。これらの領域はもともとケルト人の勢力下にあり、ゲルマン人の勢力下にはなかったので、そういうことも一因となったようである。ただし後になって、これらの地域でイングランドとの抗争や関係なども発生する。この抗争や関係はノルマン・コンクエスト自体によるものではなく、ノルマン・コンクエスト以後の出来事による。
目次

1 背景

2 戦い

3 征服

4 支配

5 影響

6 ノルマン・コンクエストを題材とした作品

7 脚注

8 関連項目

背景

11世紀イングランドは、デーン人の王朝(スヴェン1世クヌート1世など)の後、ノルマンディーの支援を受けたアングロ・サクソン王朝のエドワード懺悔王が即位したが、その支配はデーン人とノルマンディー人の影響力の脆いバランスの上に立ったものだった。この不安定な状況が、後に外部の介入を招く伏線となった。

エドワード懺悔王には息子がいなかったので、甥で異母兄エドマンド2世の息子エドワード・アシリングをあらかじめ後継者に迎えていたが、エドワード・アシリングが亡くなると、その幼い息子エドガー・アシリングを後継者とした。しかし、1066年に懺悔王が亡くなると、年少(15歳前後)のエドガーは無視された。代わりに、王妃エディスの兄で最大のサクソン貴族であったハロルド・ゴドウィンソンが、サクソン諸侯会議によって王(ハロルド2世)として選ばれた。

その後、紛糾が起こり、ハロルド2世の弟トスティは、ノルウェーハーラル3世と組んで王位を主張した。一方、ノルマンディーギヨーム2世(エドワード懺悔王の従甥)は、エドワード懺悔王から後継者に指名されていたと主張した。さらにギヨーム2世は、以前ハロルドがギヨーム2世の後継を承認する誓い(聖骨の誓い)をしており、即位は破誓であり無効だとし、ローマ教皇アレクサンデル2世の承認を得た。かくして状況は紛糾、これを解決するのは武力しかないというありさまになった。
戦い ハロルド2世の銀貨。イギリス、大英博物館所蔵 スタンフォード・ブリッジの戦いの様子 馬に乗ったノルマン兵とアングロ・サクソン歩兵が戦う様子

1066年、ハロルドの戴冠後に、まずトスティが反旗を翻した。トスティはイングランド南部を荒らした後、北のスコットランドに移り、ハーラル3世と組んで再び攻勢をしかけた。一方、ギヨーム2世は配下のノルマンディー諸侯のみならず、フランス中から領地を求める小貴族の次男以下を募って南方から攻勢をしかけた。ハロルド2世は北方と南方から挟まれる形になった。

この状況で、まず北方のトスティが攻勢をしかけた。ハロルド2世の軍は激戦の末にこれを撃破した(スタンフォード・ブリッジの戦い)が、疲弊した。そこへ南方からギヨーム2世が攻勢をしかけた。イングランドに上陸し、優秀な騎馬や相手の戦術ミスなどでハロルド2世の軍を撃破、ハロルド2世を討ち取った(ヘイスティングズの戦い)。

ギヨーム2世はさらに南部から北東部の各地に進撃した。南部のサクソン諸侯は、ハロルド2世の戦死後に若年のエドガーを擁立して抵抗したが、ギヨーム2世の攻勢を受けて王位を認めざるをえなくなった。12月25日にギヨーム2世はウェストミンスター寺院で戴冠、ウィリアム1世として即位した。
征服

以前のイングランドはサクソン人やデーン人の大諸侯(earl)が各地に割拠している状態だったが、ウィリアム1世はイングランドの統一を推進した。ノルマンディー式の封建制を取り入れて、ヘイスティングズの戦いなどで戦死・追放した諸侯の領土を没収し、配下の騎士たちに分け与えた。さらに、各州(シャイア、shire)に州長官(シェリフ)を置いて、王の支配を全土に及ぼした。

緩やかな支配に慣れていたサクソン諸侯は、当初、ハロルド2世の一族やエドガー・アシリングをかついで各地で反乱を起こしたが、各個撃破された(前述)。その後も1070年にデーン人、スコットランドなどの支援を受けてヨークシャーなど北部で反乱が起きた。所領を奪われたサクソン人やデーン人達はロビン・フッドのモデルの1人といわれるヘリワード・ザ・ウェイクを首領として、ウォッシュ湾近くのイーリ島に集結して抵抗したが、むなしく鎮圧された(1074年)。これ以降、イングランドは安定した。

エドガーはスコットランドに逃亡し、その姉マーガレットは後にスコットランド王マルカム3世と結婚した。2人の間の娘イーディス(マティルダ)は後にサクソン人とノルマン人の融和の証としてヘンリー1世と結婚することになる。

ウィリアム1世は反乱諸侯から領土を取り上げると共に、サクソン人の貴族が後継ぎ無く死亡したり、司教修道院長が亡くなると代わりにノルマン人を指名したため、1086年頃にはサクソン人貴族はわずか2人になっていた。


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