ノルトハイム
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紋章地図
(郡の位置)

基本情報
連邦州:ニーダーザクセン州
郡:ノルトハイム郡
緯度経度:.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯51度42分24秒 東経10度00分04秒 / 北緯51.70667度 東経10.00111度 / 51.70667; 10.00111座標: 北緯51度42分24秒 東経10度00分04秒 / 北緯51.70667度 東経10.00111度 / 51.70667; 10.00111
標高:海抜 120 m
面積:145.85 km2
人口:

28,981人(2021年12月31日現在)[1]
人口密度:199 人/km2
郵便番号:37154
市外局番:05551, 05503, 05553, 05554
ナンバープレート:NOM, EIN, GAN
自治体コード:

03 1 55 011
行政庁舎の住所:Scharnhorstplatz 1
37154 Northeim
ウェブサイト:www.northeim.de
首長:ジーモン・ハルトマン (Simon Hartmann)
郡内の位置

地図

ノルトハイム (ドイツ語: Northeim, ドイツ語発音: [?n?rtha?im][2]) は、ドイツ連邦共和国ニーダーザクセン州ノルトハイム郡に属す中規模都市である。同郡の郡庁所在地であり、かつてのハンザ都市である。面積約 145 km2 のこのヨーロッパ都市には約3万人が住んでいる(2010年現在)。ノルトハイムの面積は、アインベックについで南ニーダーザクセンで2番目に広い。
地理
位置

ノルトハイムは、ハルツ山地の南西の支脈の一番外側、ゾリングから数 km 東のニーダーザクセン・ベルクラントの南ニーダーザクセンに位置している。この街は大都市ゲッティンゲンの北 20 km にあたる。この市の中心部を東経10度の経線が通っている。商店街ブライテ通りでは、白い敷石で経線を示している。

ノルトハイムをルーメ川が流れている。この川にはかつてノルトハイマー・ミューレ(水車)が稼働していた[3]。ランゲンホルテンゼン地区を流れるデューネ川は、連邦道B241号線の橋梁付近でルーメ川に合流する[4][5]。市の西側の遠くないところをライネ川が南北に流れている。中核市区の北西 4.5 km で、ルーメ川と西から流れてきたモーレ川がライネ川に合流する。

ノルトハイムは、ノルトハイム湖沼地域に面している。この湖沼地域は、2006年8月現在、砂礫採掘で形成された総面積 360 ha の12の湖沼がある。採掘完了までに少なくともあと3つの湖沼が現れる。最大の単独湖は面積 160 ha を超える。この湖は、水浴場や、たとえば定期的なヨットレースなどのウォータースポーツに利用されている。ここでは、毎年数多くのプログラムがあるノルトハイム湖沼祭が開催されている。湖沼地域のその他の部分は、ノルトハイム湖沼地域水鳥保護区などの自然保護地となっている。
市の構成

ベルヴァルツハウゼン

ビューレ

デンカースハウゼン

エーデスハイム

ハンメンシュテット

ヒレルゼ

ヘッケルハイム

ホーンシュテット


ホレンシュテット

インプスハウゼン

ラーゲルスハウゼン

ランゲンホルテンゼン

シュネーディングハウゼン

シュテックハイム

ズートハイム

これに加えて、以下の集落もこの市に含まれる。かっこ内はその集落が含まれる市区である。ヴェッツェ(シュテックハイム)、ブルンシュタイン(ランゲンホルテンゼン)、グート・ヴィッカースハウゼン(ホレンシュテット)。かつてのヘッケルハイム修道院領の防衛砦で6人の住民が住む(2005年現在)ギュントゲンブルクはハンメンシュテットに属す。
隣接する市町村

ノルトハイムは、北はアインベックカーレフェルトクライエンゼンと境を接する。東はカトレンブルク=リンダウと接する。南にはネルテン=ハルデンベルク、西にはモーリンゲンが位置する。
歴史

2008年中頃、ノルトハイムの北北東約 15 km の地点で発見されたローマ時代のカーレンフェルトの戦場跡は、2世紀末から3世紀初めにローマが、少なくとも一時期は、ノルトハイム周辺の地域を制圧していたことを示している。
最初の記録から千年紀まで

7世紀にノルトハイムに関する最初の言及が記録されている。それはフランク人貴族 Nithard とその妻 Eggehild がノルトハイム、メーデンハイム、ズートハイムの土地をフルダ修道院に寄贈したというものである。800年頃、現在の聖ジクスティ教会付近にザクセン人の定住地があった。この集落は後に「オーバードルフ」と称した。この入植地が元々どう呼ばれていたかは伝えられていない。同じ頃、近くに通商路の保護に寄与すべきフランク人入植地があった。この集落は10世紀にノルトハイム伯の所領となっていた。リッティガウの伯、ジークフリート・フォン・ノルトハイムに関する最初の記録は、982年の日付のある皇帝オットー1世の文書に遺されている。
中世

ノルトハイム伯の宮廷所在都市としての最初の記録は1002年になされている。ノルトハイムのジークフリート1世、ジークフリート2世、ベンノおよびハインリヒ・フォン・カトレンブルク、ウード・フォン・カトレンブルク4月30日の夜から5月1日にペールデ修道院でマイセン辺境伯エッケハルト1世を殺害した。

1050年頃にノルトハイム伯オットーは、エッツォ家シュヴァーベン大公オットー2世の娘でヴェルル伯ヘルマン3世の寡婦リヒェンツァと結婚した。この結婚により彼は所領をかなり拡大し、当時最も名声が高く、最も裕福な諸侯の一人となった。オットーは、1061年ハインリヒ3世の未亡人アグネスからバイエルン公領を贈与された。ハインリヒ4世がノルトハイムを訪れた際に殺害する計画を練っていたとされたオットーは、1069年に不敬罪で有罪とされ、これによってレーエンの権利もバイエルン公位も失った。オットー・フォン・ノルトハイムは、1083年に落馬して死亡したが、当時ノルトハイムに修道院(ザンクト・ブラジエン修道院)の設立を計画していた。この修道院の保護下で、現在のブライテン通り付近に市場を中心とする集落が造られた。これがノルトハイムの萌芽となった。

1110年、オットーの孫リヒェンツァ・フォン・ノルトハイムロタール・フォン・ズップリンゲンブルクと結婚した。ロタールは後に神聖ローマ皇帝ロタール3世となり、彼女は皇后となった。リヒェンツァはハインリヒ獅子公の祖母にあたる。ノルトハイム伯の男系家系はハインリヒ・フォン・ボイネブルクの死によって1147年に断絶した。修道院を含むノルトハイム伯の所領はヴィンツェンブルク伯ヘルマン2世のものとなった。その5年後にヘルマンが殺害され、修道院はハインリヒ獅子公となった。ヘッケルハイム地区で発見された1437年の刻印がある硬貨

ノルトハイムは1204年に初めて "civitas"(ラテン語で「都市」を意味する)として記録されているが、都市権はその 50年後の1252年に与えられた。これにより、現在も一部が遺る市壁が建設された。1246年にノルトハイムは 50 km 離れた都市ハン・ミュンデンと相互防衛同盟を結んだ。ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公の代官所は1334年から(1832年の火災で荒廃するまでは)市庁舎として利用された。同じ頃ノルトハイムは貨幣鋳造権を獲得した。この時代からノルトハイムは経済的に興隆し、1384年ハンザ同盟に加盟した。1477年に最初の市立学校が設立された。この学校はギムナジウム・コルフィニアヌムとして現存している。1480年頃にすべての修道院施設が改築されたと記録されている。この頃1485年に修道院のゴシック様式のホール式教会が建設された。しかし、宗教改革により、これらの建設工事は中止に追いやられた。ノルトハイムはプロテスタント化された。1539年3月7日、宗教改革家アントン・コルヴィーヌスはこの街で最初の教会法を制定し、議会は聖ジクスティ教会の保護者となった。


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