ノブゴロド公国
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ノヴゴロド公国
ノヴゴロド共和国
Новгородского княжества
Новгородская республика

1136年 - 1478年


(国章)

ノヴゴロドの位置と領域(1400年代)

公用語古東スラヴ語
首都ノヴゴロド
ノヴゴロド公
xxxx年 - xxxx年不明
1462年 - 1478年イヴァン3世

変遷
建国1136年
滅亡1478年

ロシアの歴史

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ノヴゴロド公国(ロシア語: Новгородского княжества、教会スラブ語: Новгородская земьля)は、公座を大ノヴゴロドに置いていた中世ルーシ(古代ロシア)の主要な都市国家の一つ。中世には特殊な貴族共和制により、しばしばノヴゴロド共和国(ロシア語: Новгородская республика)と呼ばれ、こちらの名前が定着しつつある。その他、ノヴゴロド国という表記も見られる。

タタールのくびき」にルーシ全体があえぎ、北方十字軍スラヴ人正教からカトリックへの「剣による改宗」を強制していた13世紀のルーシの中心であった。
目次

1 政治

2 経済

3 国際関係

4 文化

4.1 芸術とイコン

4.2 建築と都市デザイン

4.3 文学


5 歴史

5.1 古代

5.2 ハンザ同盟とノヴゴロド共和国

5.3 アレクサンドル・ネフスキー時代

5.4 タタールの軛


6 公国の落日

7 影響

8 脚注

9 参考文献

10 関連項目

11 外部リンク

政治 中世Novgorod Kremlinの城壁。15世紀のもの。左方のThe Kokui towerは17世紀のもので、名称はスウェーデン語に由来する。

ノヴゴロド公国はヨーロッパの中でも先進的な共和制の伝統を育んできた[1]。ノヴゴロドはが支配する公国であるが、実態は貴族共和制であった。名目上の君主としてルーシの諸公国から公を推戴するが彼には実質的な公権が無く、貴族の利権にそぐわなければ罷免されることもあった。モスクワがノヴゴロドの体制を転覆する日まで、ノヴゴロド市民は政府の運営と人事について発言権を有していた。市民は官吏を任免することができるほか、君主である公をも選出し、また罷免する権利があった。年代記によれば、これらの決定はヴェーチェ(вече)、すなわち「民会」によって行われた。民会には貴賤を問わずあらゆる階層の人々が参加した[2]。中世のノヴゴロド公国の厳密な制度ははっきりしないが、ノヴゴロドの強固な伝統は高度に体系化された行政、軍事、司法、そして通商の制度を構築していたといわれている。

学者らのうちには、大主教が行政の長を兼ねていたと主張しているものもいるが、政府内の具体的な機能分担を検証することは困難である。ただし、Council of Lords (Совет Господ)なる会合が存在し、大主教邸で開かれていたということは確からしい[3]。ただし、これらの説についても近年Jonas Granbergが疑義を呈している。Granbergによれば、これらの歴史家の見解は少数の史料に依存しすぎている[4]

公国の主権は、公の権力が衰えた13世紀から14世紀前半にかけても、少なくとも名目上は外国より推戴されたノヴゴロド公が有しているものとされた[5][6]。「公」と訳されるクニャージ(Knyaz)は、語源をヨーロッパ諸語の「」と同じくしており(ゲルマン語派:kuning、スウェーデン語:konung、英語:king、ドイツ語 konig、ゲルマン祖語:kuningaz)、当時においては独立した国家における君主号であり、これを公と訳すのはクニャージの称号がロシア帝国の貴族の爵位となった後世においての事情による。ただ、中世には公(クニャージ)と王(コローリ)は称号として区別されていた。ノヴゴロド大主教が行政の長であったのか否かは未だにはっきりしないが、都市の重要人物であったことだけは疑いの余地がないようだ。単に国内の教会を監督するのみならず、大使館を代表し、世俗の裁判において司法権の一部を掌握した。ただし、ほとんど常にボヤールと足並みをそろえており、独断的に行動した形跡はほとんど見られない。大主教は任命制ではなく、やはりノヴゴロド市民の選挙によって選出され、ロシア府主教による承認を必要とした[5]。大主教はおそらくノヴゴロドでももっとも豊かな地主であり、印紙の販売や市場からの徴税その他によって副収入をも得ていた[7] ノヴゴロドの民会
Vasily Khudyakovの作品

ノヴゴロドにおけるもう一方の権力者は市長、すなわちポサードニクであった。ポサードニクは民会の議長を務めるのみならず、国家をノヴゴロド公と共同統治し、徴税を担当したほか都市の様々な問題に対処した。公の重要な決定は大部分がポサードニクの承認を必要とした。当初、ポサードニクは一人であったが、14世紀中葉には、区間の権力闘争を緩和するための改革として、民会は6人のポサードニクを選出するようになり、その内の一人が筆頭の現役市長となった。ポサードニクは終身の資格であり、毎年互選で代表ポサードニクを選出した[8]。後に、ポサードニクの任期は一年とされた。民会の正確な構成も不明な部分が多いが、都市の人口と郊外の自由市民によって占められていたものと考えられる。この民会が真に民主的な組織であったのか、あるいはボヤールが仕切っていたのかという問題はいつも論争の的になっている。ポサードニク、トィシャツキー、そして主教や大主教までもが[9]民会によって選挙されるか、少なくとも承認される必要があった[10]


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