ノックスビル方面作戦
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ノックスビル方面作戦の軍隊指揮官


アンブローズ・バーンサイド
北軍少将

ジェイムズ・ロングストリート
南軍中将

ノックスビル方面作戦(ノックスビルほうめんさくせん、英:Knoxville Campaign[1])は、南北戦争中の1863年秋にテネシー州東部で行われた一連の戦闘と操軍である。アンブローズ・バーンサイド少将の指揮する北軍がテネシー州ノックスビルを占領し、チャタヌーガに居た南軍ブラクストン・ブラッグ将軍のテネシー軍から派遣されたジェイムズ・ロングストリート中将指揮する部隊は、バーンサイド軍がチャタヌーガで包囲されている北軍を救援しないようにする任務があった。ロングストリートは東部戦線ロバート・E・リー将軍の片腕となる軍団指揮官だったが、西部戦線では独立した指揮官としての役割がうまくいかず、この方面作戦でも得るところは少なかった。
背景と初期の動き

テネシー州東部の山岳地は大半が北部支持の地域であり、エイブラハム・リンカーン大統領はこの戦争の重要な目標と考えていた。北部に忠実な住民が住んでいることの他に、穀物や家畜が豊富であり、またチャタヌーガからバージニア州へ繋がる鉄道の通り道でもあった。1862年から1863年を通じて、リンカーンは何人もの指揮官にこの難しい地形を突破し地域を占領するように圧力を掛け続けた。アンブローズ・バーンサイドは1862年12月のフレデリックスバーグの戦いで完敗し、西部戦線に配転されて、1863年3月にこの軍管区とオハイオ軍の指揮を任された。バーンサイドはできるだけ迅速にノックスビルに侵攻する命令を受け、一方、同時にウィリアム・ローズクランズ少将のカンバーランド軍はテネシー州中部でブラクストン・ブラッグ軍と対抗するという命令を受けていた(タラホーマ方面作戦とそれに続くチカマウガの戦い[2]

バーンサイドの作戦はオハイオ州シンシナティからその2個軍団(第9軍団および第23軍団)で進軍することだったが、第9軍団がビックスバーグ方面作戦にあるユリシーズ・グラント少将の支援を命令されたために遅れた。第9軍団の帰還を待つあいだ、ウィリアム・P・サンダース准将の旅団を騎兵隊と歩兵隊の合同でノックスビルを攻撃するために派遣した。6月半ば、サンダースの部隊は鉄道を破壊し、サイモン・B・バックナー准将が指揮する東テネシー方面軍が支配していた市の周辺の通信を混乱させた[3]

8月半ばまでに、バーンサイドはノックスビル市に向けての進軍を開始した。ノックスビルに直接向かう経路はカンバーランド峡谷を通っており、防御する南軍側にとっては絶好の地形になっていた。バーンサイドはその道ではなく、南軍の側面に回りこむ道を選んだ。ジョン・F・デコーシー大佐の師団に北から脅威を掛けさせ、一方他の2個師団はノックスビルに向かう岩だらけの山岳路を40マイル (64 km)回り道して南軍陣地の南に向かった。道路の状態は良くなかったが、その部隊は1日30マイル (48 km)ほど進軍できた[4]

チカマウガ方面作戦が始まったとき、バックナーは南のチャタヌーガに呼びつけられ、カンバーランド峡谷には1個旅団、ノックスビルの東に1個旅団を残しているだけだった。サミュエル・ジョーンズ少将がバックナーに代わって東テネシー方面軍の指揮を執った。バーンサイドの騎兵旅団が9月2日にほとんど抵抗無いままにノックスビルに到着した。翌日バーンサイドとその主力軍は市内を占領し、地元の民衆に暖かく迎えられた[5]

カンバーランド峡谷では南軍ジョン・W・フレーザー准将指揮する2,300名の経験不足な兵士が守備に付いていたが、バックナーの撤退に続いて何をすべきか命令を受けていなかった。9月7日、北からはデコーシー隊、南からはジェイムズ・M・シャッケルフォード隊が接近してくる事態に直面して、フレーザーは降伏を拒否した。バーンサイドとサミュエル・A・ギルバート大佐の歩兵旅団がノックスビルを出てわずか52時間で60マイル (96 km)を急行した。フレーザーは勢力で圧倒されていることを認識し、遂に9月9日に降伏した[6]

バーンサイドはローズクランズ軍の支援にいくらか騎兵隊を派遣し、東テネシーからバージニアに抜ける道と峡谷を掃討し、できるならばバージニア州アビントンの向こうにある製塩所を確保する遠征の準備をおこなった。この間にチカマウガの戦いが迫り、ワシントンD.C.からは南に動いてローズクランズを支援するという興奮した要請が来ていたのを、新しく占領したばかりの領域と忠実な市民を放棄することを望まなかったバーンサイドは実質的に無視した。さらに岩の多い地形を抜けて物資を動かす難しさがあり、その供給基地から遠くに動いた場合に深刻な問題になることを懸念していた[7]
東テネシー方面作戦の戦闘

バーンサイドがローズクランズ軍の支援を督促されている間に東テネシーでは比較的小さな戦闘が2つ起こった。
ブラウンツビルの戦い(1863年9月22日)

9月22日、北軍ジョン・W・フォスター大佐はその騎兵と砲兵隊で南軍のジェイムズ・E・カーター大佐の部隊と、ブラウンツビルで戦った。フォスターは正午に攻撃を始め、4時間の戦闘の間に町を砲撃し、側面攻撃を開始して南軍を撤退させた[8]
ブルースプリングスの戦い(10月10日)

南軍ジョン・S・ウィリアムズ准将がその騎兵隊を率いて北軍の通信線と兵站を混乱させるために進発した。東テネシー・バージニア鉄道のブルズ・ギャップを占領しようとしていた。10月3日、ブルズ・ギャップに向かう途中、そこからは鉄道沿いに約9マイル (14 km)のブルースプリングスで、北軍第23軍団騎兵師団のサミュエル・P・カーター准将の部隊と戦った。カーターは直面する敵の勢力が分からなかったので撤退した。カーター隊とウィリアムズ隊はその後の数日間小競り合いを続けた。10月10日、カーター隊が大挙してブルースプリングスに接近した。ウィリアムズ隊はいくらかの増援を得ていた。戦闘は午前10時ころに始まり、北軍の騎兵隊が南軍と正午過ぎまで交戦し、一方別の騎兵隊は南軍の退路を塞ぐ陣地を取ろうとした。工兵技師のオーランド・M・ポー大尉が歩兵の攻撃を行うために最善の場所を特定するための偵察を行った。午後3時、第9軍団第1師団のエドワード・フェレロ准将が攻撃に向かい、実際には午後5時に攻撃した。フェレロ隊は南軍の前線を突破して大きな損害を与え、遮られる前にほとんど敵の後ろに回りこむところだった。暗闇が訪れて南軍が撤退し、北軍は翌朝追撃を始めた。数日のうちにウィリアムズ隊はバージニア州内まで退いた。バーンサイドは東テネシーでの南軍の影響力を弱め消すために東テネシー方面作戦を始めた。ブルースプリングスはその使命を果たすことになった[8]
ロングストリートのノックスビル侵攻

ブラクストン・ブラッグは、カンバーランド峡谷とブルースプリングスでのバーンサイドの勝利に反応し、またバーンサイドが包囲されているチャタヌーガの北軍の救援に向かうのではないかと心配し、アメリカ連合国大統領ジェファーソン・デイヴィスに、ジェイムズ・ロングストリートがバーンサイドに対抗して進軍する命令を出すよう求めた。ロバート・E・リーの北バージニア軍第1軍団の一部を率いたロングストリートは折りよくジョージア州北部に到着し、チカマウガでの南軍勝利に大きな貢献を果たしていた。ロングストリートはその命令に強く反対した。勢力的にかなり劣ることを知っていたからである。ロングストリート軍は2個歩兵師団(ラファイエット・マクローズ少将とミカ・ジェンキンス准将がそれぞれ指揮。ジェンキンスは負傷したジョン・ベル・フッド少将の師団を引き継いでいた)の総勢10,000名とジョセフ・ウィーラー少将の騎兵隊5,000名であり、対するバーンサイド軍は12,000名の歩兵と8,500名の騎兵だった。さらにチャタヌーガ周辺の南軍は残り4万名となり、グラントおよびウィリアム・シャーマン少将の接近しつつある援軍に勢力で負けることも知っていた。ロングストリートは、勢力を分散することで、「我々は双方を失敗に向かわせることになり、実際に自ら大きな結果を生むチャンスが無くなる」と主張した[9]

ロングストリート軍が鉄道での輸送の準備をしている間に、11月6日、テネシー州グリーンビルで小さな戦闘が起こった。ロバート・ランサム・ジュニア少将とウィリアム・E・グランブル・ジョーンズ准将がその地域の北軍騎兵隊を蹴散らし、第7オハイオ騎兵隊と第2東テネシー騎乗歩兵連隊から多くの捕虜を取った[10]


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