ノストラダムス現象(ノストラダムスげんしょう、le phenomene nostradamus, le phenomene nostradamique[1])とは、16世紀フランスの医師・占星術師ノストラダムスに関して、同時代から現代に至るまでに引き起こされてきた影響のこと。
ノストラダムスは、『予言集』や翌年一年間を予言した『暦書』類などの形で様々な「予言」を残した(彼の「予言」の位置づけについてはノストラダムス#予言の典拠などを参照)。こうした予言は、同時代においては批判者や中傷者を、同時代から少し後の時代にかけては偽者や模倣者を、そしてそれ以降現代に至るまでは、多くの便乗的なパンフレット作者や予言解釈者たちを生み出す要因となってきた。
これらの原動力としては、当初は暦書が主体であったが、次第に『予言集』の影響が強くなっていった。その『予言集』は、18世紀末までに130種以上の版を重ねるという成功をおさめ、2010年現在では英、伊、西、葡、独、蘭、諾、日などの翻訳版を含めて少なくとも累計220種以上の版を確認できる(ここには解釈本の類は含んでいない)。 ノストラダムス現象は、ロベール・ブナズラの書誌での区分に準じれば、以下の3つの時代に大別できる[2]。 この時代は、ノストラダムスの存命中(1550年代半ばから1560年代初頭まで)にあたる。ノストラダムスの予言は、大いにもてはやされた一方で、様々な批判が浴びせられた。そうした批判には、論理的な批判も見られた一方で、ノストラダムスを「モンストラダムス(モンストル=怪物、との合成語)」と呼ぶなど、単なる中傷に過ぎないものも少なからず見られ、かつてのノストラダムスの知人ジュール・セザール・スカリジェなども、こうした中傷に関与した。 この時期の批判や中傷の特色としては、コンラッド・バディウス、ウィリアム・フルクなどプロテスタントからの批判が多かったこと、および主たる攻撃対象は暦書類であって、『予言集』は余り相手にされていなかったことが挙げられる[3]。 この時代は、ノストラダムスの晩年から17世紀初頭にあたる(この時代の初期は批判者たちの時代と重なる)。この時期には、ノストラダムス2世、アントワーヌ・クレスパン・ノストラダムス、フィリップ・ノストラダムスといった偽者たちが現れ、弟子を自称する者も複数現れた。また、ノストラダムスの詩篇を盗用した占星術師も複数いた。 彼らはノストラダムスの著書を真似たが、そこで模倣の対象になったのは、主に暦書類の書式であって、『予言集』を真似て詩集を出した者はほとんどいなかった。他方、ノストラダムスの作品からの盗用は、むしろ『予言集』の詩篇が対象となる場合が多かった。 この時代は、16世紀末葉から現代にあたる(この時代の初期は模倣者たちの時代と重なる)。ノストラダムスの予言について、最初に体系的な解釈を施したのは、ノストラダムスの秘書であったジャン=エメ・ド・シャヴィニーである(1594年)。しかし、その後ノストラダムスの注釈者が一気に増えたわけではなく、19世紀までは各世紀数人程度しか注釈者は現れなかった(ノストラダムス関連人物の一覧#ノストラダムス予言の主な解釈者参照)。ノストラダムスの作品から未来を読み取ろうとする解釈者が爆発的に増えるのは、20世紀の2度の世界大戦を経てのことである。 上述の通り、19世紀までの解釈者の数はさして多いものではない。しかし、ノストラダムス関連書が少なかったわけではなく、ミシェル・ショマラの書誌では、1567年(ノストラダムスの死の翌年)から1800年頃までの関連書として、実に300点以上が挙げられている。その内容は、おおよそ以下のとおりである。 まず、既に触れた通り『予言集』の版が多く重ねられている。そして、それ以外で目立ったのは、翌年一年を予言した暦書や、数年程度に対象を限定した散文の予言書であった。前者の例としては『ミシェル・ノストラダムス師によって正確に算定された1674年向けの歴史的暦』(パリ、1674年頃)などが、後者の例としては『1768年から1774年までの7年間のノストラダムスの新奇なる予言』(パリ、1768年頃)[4]などが挙げられる。
時代区分
敵対者たちの時代
詐欺師たちの時代
解釈者たちの時代17世紀に出された注釈書の1ページ
19世紀までの関連書の種類
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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