ノジャン=ル=ロトルー
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Nogent-le-Rotrou


行政
フランス
地域圏 (Region)サントル=ヴァル・ド・ロワール地域圏
(departement)ウール=エ=ロワール県
(arrondissement)ノジャン=ル=ロトルー郡
小郡 (canton)ノジャン=ル=ロトルー小郡
INSEEコード28280
郵便番号28400
市長任期)フランソワ・ユヴァール(PRG
2014年 - 2020年
自治体間連合 (fr)Perche
人口動態
人口10 130人
2014年
人口密度431人/km2
住民の呼称Nogentais
地理
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯48度19分21秒 東経0度49分21秒 / 北緯48.3225度 東経0.8225度 / 48.3225; 0.8225座標: 北緯48度19分21秒 東経0度49分21秒 / 北緯48.3225度 東経0.8225度 / 48.3225; 0.8225
標高平均:m
最低:97m
最高:213m
面積23.49km2
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公式サイト ⇒ville-nogent-le-rotrou.fr
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ノジャン=ル=ロトルー (Nogent-le-Rotrou)は、フランスサントル=ヴァル・ド・ロワール地域圏ウール=エ=ロワール県コミューン
地理

ノジャン=ル=ロトルーは自然区分上のペルシュ地方に属している。オルヌ県と接している。サルト県の県境からおよそ10kmしか離れていない。ル・マンとをつなぐ自然上の交通の軸であるユイヌ川谷に位置している。コミューンはパリから直線距離で南西西127kmのところにある。シャルトルの西52kmにある。

鉄道 - パリ-シャルトル-ル・マン間の路線が停車するノジャン=ル=ロトルー駅がある。1989年にLGV大西洋線が開業後は、駅に停車するのはTER路線と貨物路線のみになった。シャルトルへは電車で片道40分、ル・マンへは片道45分である。

道路 - 国道155号線(オルレアン-サンマロ間)、国道23号線(シャルトル-ナント間)、A11

由来

町は最初にNogionum(新しく一掃された土地)と呼ばれた。その後ガロ=ローマ時代にはNovigentum、Nogentum(新たな人々、新たな町)となった[1]。城を持つ町であるため、12世紀に町の支配者ロトルー家を付けたノジャン=ル=ロトルーの名が現れるまでは[2]、11世紀にCastrum Nogenti(ノジャンの城)とも呼び表された。町の名を変更する試みがかつてあったが(コンデ公は1560年にEnghien-le-Francoisと改名、シュリー公マクシミリアンは1632年にNogent-le-Bethuneとし、フランス革命時代は簡単にNogent-le-Republicainと呼ばれた)、12世紀よりノジャン=ル=ロトルーの名が使われ続けている。

古いつづりのnogiomumは、ノジャン=ル=ロトルーのノジャンと他のNogentを区別したものである。nogiomumはnovio+-magosの構成となっており、意味は『新しい市場』となる。
歴史コンデ公ルイ1世

16世紀のノジャン=ル=ロトルーは、サージ織物とエタミーヌ織(fr、粗い平織の薄布)の生産と貿易で急速な発展を遂げた。これら織物はヨーロッパと新大陸に輸出された。また、周辺の農村地帯ではワインとシードルが生産されていた。町はルネサンス期に重要な知的・芸術的発展を見た。この地でプレイヤード派の詩人レミ・ベローが誕生している。町の庁舎とホールは1533年に建設された。そしてノジャンの通りの舗装は1556年に始まった。

しかし、ノジャン領主ルイ1世が新教徒派の首領となった後、ノジャンをユグノー戦争が襲った。1568年に参事会教会が焼失した。そして数か月後、ノルマンディーのカトリック派首領は、城の新教徒派駐屯地で絞首刑にされた。

多くの修道院や神学校が17世紀に建設された。ペルシュの繁栄は初期に繊維業と冶金業で活気づいていた。ルイ13世と母太后マリー・ド・メディシスは1614年9月10日に町で休息をとった[3]アンリ4世の新教徒の大臣、マクシミリアン・ド・シュリーは、1624年にノジャン領を獲得して領主となった。しかし、シュリーはサン・ドニ修道院の修道士たちが反対したためノジャンに住むことはなかった。

1685年のナントの勅令廃止は、多くの繊維業者の流出と、繊維業の衰退の始まりとなった。


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