ノイス
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紋章地図

基本情報
連邦州:ノルトライン=ヴェストファーレン州
行政管区:デュッセルドルフ行政管区
郡:ライン・ノイス郡(ドイツ語版)
緯度経度:北緯 55度 12分 01秒
東経 06度 41分 38秒
面積:99.53 km2
人口:

152,731人(2021年12月31日現在)[1]
人口密度:1,535 人/km2
標高:海抜 30 - 67 m
郵便番号:41460 - 41472
市外局番:02131, 02182
ナンバープレート:NE
自治体コード:05 1 62 024
市の構成:28 地区
市庁舎の住所:Markt 2
41460 Neuss
ウェブサイト:www.neuss.de
行政
市長:ライナー・ブロイアー (SPD)
郡内の位置

ノイス(ドイツ語: Neuss, 南部低地フランク方言(ドイツ語版): Nuss; ラテン語: Novaesium; 1968年までの表記: Neus)は、ドイツノルトライン=ヴェストファーレン州の都市である。ライン川左岸に位置し、対岸にはデュッセルドルフがある。人口は約15万人である。ノイスはドイツ最大の郡庁所在都市(ドイツ語版)であり、またライン・ノイス郡(ドイツ語版)で最大の都市である。とりわけ、古代ローマに遡る歴史、ライン港、ノイス市民射撃祭で知られている。1963年にノイスの人口は10万を突破し、大都市(ドイツ語版)となった。ノイスは、州の計画では中規模中核都市(ドイツ語版)に位置づけられている。1984年には都市の2000年周年記念祭を開催した。ノイスは、ドイツで最古の都市(ドイツ語版)の一つである。
地理ノイス市庁舎

ノイスは、ニーダーライン地方(ドイツ語版)、デュッセルドルフを望むライン川左岸の河岸段丘にあり、エルフト川(ドイツ語版)がライン川に流れ込む。市内で最も標高の高い地点は、ホルツハイム地区(ドイツ語版)であり、67.5メートル、最も低い地点は都市南端の部分にあり、海抜30メートルである。都市の領域は南北13.2km、東西12.8kmである。ノイスはライン・ノイス郡(ドイツ語版)の東端に位置するとはいえ、郡の地理的中心は市内(グート・ホンブローホ (Gut Hombroich) 付近)にある。「ヴァーラー・ベルク(ドイツ語版)」も参照
近隣都市

ノイスは以下の都市や自治体と接している。東から時計回りに挙げる。

デュッセルドルフ(郡独立市(ドイツ語版))、ドルマーゲン(ドイツ語版)、グレーヴェンブローホ、コルシェンブローホ(ドイツ語版)、カールスト(ドイツ語版)、メーアブッシュ(すべてライン・ノイス郡(ドイツ語版))。
都市の構成

ノイスには他のノルトライン=ヴェストファーレン州の郡独立市とは異なり、都市区が設定されていない。都市を区画するのは、統計区域である。これらは連番が振られ、固有の名称を持つ。

1 インネンシュタット、聖三王地区(ドイツ語版)、3 港地域(ドイツ語版)、4 ハムフェルト(ドイツ語版)、5 アウグスティヌス地区(ドイツ語版)、6 グナーデンタール(ドイツ語版)、7 グリムリングハウゼン(ドイツ語版)、8 ユーデスハイム(ドイツ語版)、9 ヴェックホーフェン(ドイツ語版)、10 エルフトタール(ドイツ語版)、11 ゼリクム(ドイツ語版)、12 ロイシェンベルク(ドイツ語版)、13 ポモーナ(ドイツ語版)、14 スタジアム地区(ドイツ語版)、15 ヴェストフェルト(ドイツ語版)、16 モルゲンシュテルンスハイデ(ドイツ語版)、17 フルト=ズュート(ドイツ語版)、18 フルト=ミッテ(ドイツ語版)、19 フルト=ノルト(ドイツ語版)、20 ヴァイセンベルク(ドイツ語版)、21 フォーゲルザング(ドイツ語版)、22 バルバラ地区(ドイツ語版)、23 ホルツハイム(ドイツ語版)、24 グレーフラート(ドイツ語版)、25 ホーステン(ドイツ語版)、26 シュペック/ヴェール/ヘルペンシュタイン(ドイツ語版)、27 ノルフ(ドイツ語版)、28 ローゼレン(ドイツ語版)。

また分散した住宅地があり、一部は固有の名称、または地区名と同じ名称を持つ。アラーハイリゲン(ドイツ語版)、ベッティクム (Bettikum)、デリクム (Derikum)、ディルケス (Dirkes)、エルヴェクム(ドイツ語版)、エルフトタール・オスト (Erfttal Ost)、エルフトタール・ヴェスト (Erfttal West)、ギーア (Gier)、グレーフラート (Grefrath)、グルーセム=オスト (Gruissem-Ost)、ホルペンシュタイン (Helpenstein)、アム・クライツ (Am Kreitz)、クックホーフ (Kuckhof)、ランツェラート (Lanzerath)、レーヴェリング (Loveling)、ミンケル (Minkel)、ラインパルクセンター(ドイツ語版)、レックラート (Rockrath)、ローゼラーハイデ(ドイツ語版)/ノイエンバウム (Neuenbaum)、シュリヒェルム(ドイツ語版)、シュペック (Speck)、シュトゥットゲン (Stuttgen)、ヴェール (Wehl)、ロット (Rott)。
歴史
ローマ時代かつてのローマ軍の陣営詳細は「ノウァエシウム(ドイツ語版)」を参照
ノウァエシウム (Novaesium)

ノイスは、ドイツで最古の都市(ドイツ語版)の一つである。すでに紀元前16年には、ローマ軍はエルフト川(ドイツ語版)がライン川に注ぐ場所に至った。今日の旧市街化の南東約2.5 kmの地点で、木と土で防塁を築いた[2]。その付近には既にケルトゲルマン[要曖昧さ回避]と思しき先住民の集落があり、この場所は戦略的に選ばれものであった。カエサルが征服したガリアリヨンからトリーアとツュルピヒ(ドイツ語版)を経てライン川に至るトリーア-ケルン・ローマ街道(ドイツ語版)の終着点の近くであり、またライン川、エルフト川、ルール川、ヴッパー川(ドイツ語版)といった水路交通の便の良い地位であった。加えてこの地にはローマ軍の陣営(いわゆる「A陣営からF陣営」)が並んでいたが、使用季節は限定されていたと考えられている。とりわけ「第19軍団(ドイツ語版)」と「第20軍団ウァレリア・ウィクトリクス(ドイツ語版)」が一時この地に駐屯していたとされる。ローシャイダー・ホーフ(ドイツ語版)野外博物館の錫人形部に置かれたノイスのローマ城砦の模型

紀元1世紀半ば頃には、ローマ軍、特に第6軍団 (Legio VI) は、ノイス=グリムリングハウゼン近くに初めて石造りの陣営陣営(ドイツ語版)を建設した。後に考古学者コンスタンティン・ケーネン(ドイツ語版)によって発見され、その名をとって「ケーネン陣営」と呼ばれている。1世紀後半なると、城砦には常に1個軍団、6,500名の兵士が駐屯するようになった(ノウァエシウム(ドイツ語版))。当時の様子は、H. -J. グラウル (Graul) の手になる、学術的見地を踏まえた城塞と住民の集落のジオラマに見ることができる。これは今日、ローシャイダー・ホーフ(ドイツ語版)野外博物館に置かれている[3]

最期に「ケーネン陣地」に駐屯していた第6軍団が、100年頃にウェテラ(ドイツ語版)(現:クサンテン)に移駐すると、この場所には2世紀初めに補助陣営が構築され、要員600人が収容可能であった。3世紀の終わりなると、ローマ軍の国境防衛は、フランク族の襲撃の増加に呼応し再編されることになり、エルフト川河口付近の補助陣営も放棄されることになった。
住民集落

軍団陣営の周りには大規模な集団墓地と陣営郊外 (「カナバエ・レギオニス (canabae legionis)」)が成立し、兵士の家族が居住し、また商人、宿屋、軍団のための職人が働いていた。この郊外と集団墓地から住民集落(「ウィクス (vicus)」)が生まれ、数世紀の時を経て今日のノイスへと発展した[4]
中世初期

1963年の聖クヴィリーン (St. Quirin) 教会周辺の発掘の際、フーゴ・ボルガー(ドイツ語版)は500年頃のフランク族の墓地を発見した。これはノイスの中世初期の集落が、古典古代と連続することを証明している[5]8世紀から9世紀にかけての遺物は、オーバートーア(ドイツ語版)(「上門」)とマリア教会 (Marienkirche) 付近から発掘された[6]

恐らく10世紀後半には教会の隣にベネディクト派の修道院が開かれたが、高位貴族の寄進によるものであった。この教会の守護聖人、ノイスのクヴィリヌス(ドイツ語版)の聖遺物が運ばれて来たのも、この時代のこととされている。
中世と近世の歴史1474年から1475年にかけてのノイス包囲戦
都市への発展

1190年にノイスは、初めて公式に都市として承認された。皇帝ハインリヒ6世がカイザースヴェルト(ドイツ語版)でノイスに免税を認めた時のことである。1200年頃には、5つの塔を持つ都市壁が建設された。1209年にはクヴィリヌス修道院聖堂(ドイツ語版)の礎石が棟梁であるヴォルベロ (Wolbero) によって置かれた。これは以前に存在した建築物を利用したものであった。1474年から1475年かけてノイスはブルゴーニュ公シャルルによってほぼ1年にわたって包囲されたものの(ノイス包囲戦(ドイツ語版))、抵抗を貫いた。これを讃え皇帝フリードリヒ3世はノイスに特別な権利を与えた。貨幣鋳造特権(ドイツ語版)、赤封蝋特権(ドイツ語版)(蝋で封印をする際、赤色のものを使用する権利)、ハンザ都市権、そして新たな紋章である。これらは都市に多大な恩恵をもたらしたが、ケルン戦争(ドイツ語版)では占領の憂き目にあい、また1586年の大火災で街は灰燼に帰した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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