ノア・ウェブスター
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ノア・ウェブスター
ノア・ウェブスター像
(ジェイムズ・ヘリング画、1833年)
誕生Noah Webster Jr.
(1758-10-16) 1758年10月16日
英領アメリカコネチカット植民地
ハートフォード西部
死没1843年5月28日(1843-05-28)(84歳)
アメリカ合衆国コネチカット州
ニューヘイブン
墓地グローヴ・ストリート墓地
職業.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul{line-height:inherit;list-style:none none;margin:0;padding-left:0}.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol li,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul li{margin-bottom:0}

辞書編纂者

著述家

最終学歴イェール・カレッジ
ジャンル辞書、教科書、言語学
代表作アメリカ語辞典、ブルーバックド・スペラー
配偶者レベッカ・グリーンリーフ・ウェブスター (m. 1789)
子供8
署名
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ノア・ウェブスター・ジュニア(Noah Webster Jr., 1758年10月16日 - 1843年5月28日)は、アメリカ辞書編纂者教科書編集者、綴り字改革運動家、政治評論家、編集者、著述家。ウェブスターが著した綴字教本、通称『ブルーバックド・スペラー』は、およそ一世紀の間、アメリカの子女に読み書きを教えるのに用いられた。史上初の本格的米語辞書『アメリカ語辞典』(1828年初版)の編纂者であり、アメリカで単に「ウェブスター」といえば「辞書」と同義である。
伝記
生い立ち国定歴史建造物ノア・ウェブスター・ハウス。ノア・ウェブスターの生家。ウェブスターの個人史とウエスト・ハートフォード郷土史の資料館となっている。

ノア・ウェブスター・ジュニアは、1758年10月16日、ハートフォードの西部地区(後のウエストハートフォード)の良家に生まれた[1]。父ノア・シニア(1722年 - 1813年)、母マーシー(1727年 - 1794年)の第4子。父ノアは農業を主として営んでいたが、地区の会衆派教会の助祭、独立戦争時は自警軍の隊長を務め、地区の読書会(のちに公共図書館の母体となる)の呼びかけ人でもあった[1]。アメリカの独立後、治安判事に任命されている[1]

父ノアは大学に籍を置いたことはなかったが、知的好奇心を有し、教育を重視した。母マーシーは子供たちの教育に時間を注ぎ、言葉の綴り方、数学、音楽を教えた[2]。6才になったウェブスターは、ウエストハートフォードの教会が運営する、教室が一つきりの老朽化した学校に通い始めた。後年、そこの教師たちを「人間として小さい」と述懐、指導内容が主として宗教的なものであったことに不満を表した[3]。ウェブスターのここでの経験は、将来世代が経験するであろう教育を改善しなければならないという動機となった[4]

14才になると、教会の牧師はウェブスターをイェール・カレッジに入学させるためのラテン語古代ギリシア語の教授を始めた[5]。ウェブスターは16才の誕生日の直前にイェールに入学し、最終学年を学長エズラ・スタイルズ(英語版)の元で学んだ。ウェブスターがイェールで学んだ4年はアメリカ独立戦争と時期が重なっており、食料の不足とイギリス軍の侵攻の恐れから、授業の多くを他の町で行わざるをえなかった[6]

ウェブスターは1779年にイェールを卒業したが、その語の進路の準備を何もしていなかった[7]。父ノア・シニアは息子の学費のために農場を抵当に入れていたが、大学卒業後も生活力を身につけることができない息子に対して勘当同然の措置をとり、これがノア・ジュニアに強い挫折感を味合わせた[8]。その後グラストンベリーの学校で短期間教師を務めたが、仕事の厳しさと給料の安さからこれをやめた[9]。続いて最高裁判所長官オリバー・エルスワースの元で法学を学びながらハートフォードでフルタイムの教師を務めた――が、これは無理が多く、最終的に断念した[10]。ウェブスターは一年で法律の勉強を止め、うつ状態になったが、1780年にふたたび法学の習得を志し、リッチフィールドの弁護士タッピング・リーヴの私塾に通って1781年4月に司法試験に合格した[11]。しかし戦争がまだ続いていたため、法律家としての仕事を得ることができなかった[12]
教育者として

1781年春、コネチカットの西部に小規模な私立学校を開き、軌道に乗せることに成功した[13]。またこの間、ウェブスターはイェールの卒業生向けの制度を利用して修士号を取得している[14]。しかし、この時期に失恋したためであろうか、ウェブスターは間もなくその学校を閉めて町を去った[15]

このころ、ジョン・ピーター・テタードという牧師から、フランス語とフランス啓蒙思想を学び、特にジャン=ジャック・ルソーの『社会契約論』『エミール、または教育について』の影響を強く受けた[16]。1781年のヨークタウンの戦いで独立戦争が実質的に終結し、アメリカ国内の関心がそれまで棚上げされていた政治や社会の問題へと向かったころ、それらについてウェブスターはラディカルなビジョンを持っていた[16]

1782年、ウェブスターははじめて公の政治評論の場に意見を投じる[17]。当時ニューヨークやフィラデルフィアのホイッグ党は、フランスとの協調を断ってイギリス本国との関係を修復せよという主張を盛んにしていたが、ウェブスターはニュー・イングランド規模の有力紙である『ニューヨーク・パケット』[原名 1]紙に寄せた論説でこれを退け、ヨーロッパ諸国に対してアメリカの独立性を保つことの意義を強調した[18]。しかしこの時点でのウェブスターによる主張は、ウェブスターのいう意義をいかにして形にするかというプランを伴ってはいなかった[19]

その後ニューヨーク州ゴーシェンの富裕層の子弟を対象とする私立学校を始めた[20]。学校の経営は苦しく、法律家としての仕事も見つけることができなかった[21]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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