公用語オランダ語
低ザクセン語
西フリジア語
ワロン語
ルクセンブルク語
フランス語
宗教カトリック
プロテスタント
首都ブリュッセル
国王
1482年 - 1506年フィリップ4世
1556年 - 1581年フィリップ5世
変遷
成立1482年
国事詔書1549年
独立宣言1581年
現在 オランダ
ベルギー
ルクセンブルク
フランス
ドイツ
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低地諸国の歴史
リエージュ司教領 (980年-1794年)
ブルゴーニュ領ネーデルラント (1384年-1477年)
ネーデルラント17州
ハプスブルク領ネーデルラント(オランダ語: Habsburgse Nederlanden)は低地諸国に16世紀に存在した、カスティーリャ国王・スペイン国王を君主とする同君連合下の国家群である。現在のオランダ王国・ベルギー王国・ルクセンブルク大公国・そしてフランス共和国北部のアルトワ(Artois)・ノール(Nord)とドイツ連邦共和国の一部を含む地域を含んだ領域に存在した。
17州の一覧図1.1477年におけるネーデルラント17州の地図
図1に示す17州には、以下の諸侯領が存在した。
アルトワ伯国(英語版)
フランドル伯国(リール、ドゥエー、オルシー等の都市を含む)
メヘレン領主領(英語版)
ナミュール伯国(英語版)
エノー伯国(英語版)
ゼーラント伯国(英語版)
ホラント伯国(英語版)
ブラバント公国(アントウェルペンを含む)
リンブルフ公国(英語版)
ルクセンブルク公国(英語版)
ユトレヒト領主領(英語版)
フリースラント領主領(英語版)
ヘルレ公国(1543年以降)
フローニンゲン領主領(英語版)
ドレンテ領主領(英語版)(リンゲンを含む)
オーファーアイセル領主領(英語版)
ズトフェン伯領(英語版)
トゥルネーの町のある場所であるリールとモンスの間の青いエリアは17州の1つであると考えられていた。一方、リエージュ司教領はこれらの州の一員とは考えられていなかった。この17州は、ネーデルラント全国三部会に代表者を送っていた州と常に同じ17州ではなかった。時には1つの代表が他の代表とまとめられたこともあった。通常、ズトフェンはゲルデルンの一部であったし、リンブルフはブラバントを頼っていた。一方、フランドルのフランス語を話す都市は、別々の州と認められることもあった。
更にネーデルラントには、17州に含まれない領土が存在した。その最大のものはリエージュ司教領だった。北にはフランス革命まで自らの支配者を持ち続けたアメラント島のような、いくつかの小さな領域も存在した。 ネーデルラント17州の歴史は、1477年にブルゴーニュ公国を治めていたシャルル突進公が戦死した際に男子の継承者がいなかったために、娘のマリー女公の夫であるハプスブルク家のマクシミリアン大公によって継承されたのが始まりである。マリーが落馬によって死亡した後、公国内の有力貴族が反乱を起こし、マクシミリアンはブルゴーニュ公の退位を余儀なくされる。 その後、この地域は息子のフィリップ美公が治め、その急死後はその長子シャルルが公国を相続した(1515年1月に全国議会で即位)。 さらにシャルルは1516年にはカスティーリャ・アラゴン両王国の君主となり、1519年には対抗馬のフランソワ1世を破って、神聖ローマ皇帝カール5世となった。カールの時代に17州全てが統合された。その最後が1543年のゲルデルン州であった。こうして東はトランシルヴァニアから西はスペインにいたる、ヨーロッパ全体を包含するかのような「帝国」が形成された。 この「帝国」には一体的な国家組織がなく、個別の国家が単にカール5世のもとに集約されているに過ぎなかった。しかし、低地地方はその中で位置的には辺境であるにもかかわらず、対フランスの軍事的・政治的拠点であり、さらにアントウェルペンの金融は「帝国」の重要な財源であった。
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