ネヴィル・チェンバレン
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イギリス政治家ネヴィル・チェンバレンNeville Chamberlain
ネヴィル・チェンバレン(1923年)
生年月日 (1869-03-18) 1869年3月18日
出生地 イギリス
イングランドバーミンガム
サウスボーン
没年月日 (1940-11-09) 1940年11月9日(71歳没)
死没地 イギリス
イングランドハンプシャー
ヘックフィールド
出身校メイソン・サイエンス・スクール
前職実業家
所属政党保守党
配偶者アン・チェンバレン
親族ジョゼフ・チェンバレン(父)
オースティン・チェンバレン(兄)
サイン
第60代首相
内閣第1次チェンバレン内閣
第2次チェンバレン内閣
在任期間1937年5月28日 - 1940年5月10日
国王ジョージ6世
財務大臣
在任期間1923年8月17日 - 1924年1月22日
1931年11月5日 - 1937年5月28日
保健大臣
在任期間1923年3月7日 - 8月27日
1924年11月6日 - 1929年6月4日
1931年8月25日 - 1931年11月5日
枢密院議長
在任期間1940年5月10日 - 10月3日
国王ジョージ6世
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アーサー・ネヴィル・チェンバレン (英語: Arthur Neville Chamberlain, FRS, 1869年3月18日 - 1940年11月9日) は、イギリス政治家実業家首相(在任:1937年5月28日 - 1940年5月10日)。ナチス党傘下のドイツ国に対する宥和政策で知られる。
生涯
生い立ち

バーミンガム市長や植民地大臣などを歴任したジョゼフ・チェンバレンを父としてバーミンガムのサウスボーンで生まれる。外相時代にロカルノ条約を締結し、ノーベル平和賞を受賞したオースティン・チェンバレンは異母兄にあたる。6歳の時に母親が死去した。

ラグビー校で教育を受け、さらにメイソン・サイエンス・スクール(バーミンガム大学の前身)でも学び、科学冶金学金属工学)の学位を得て、卒業後は監査法人に就職した。一方で父ジョゼフが経営していたイギリスの植民地バハマ農園へ派遣され、そこで長く農園経営も行った。
政治経歴

その後実業界で成功を収め、この時に得た名声を後ろ盾として1911年に生まれ育ったバーミンガムの市議に立候補し当選した。そのわずか4年後の1915年には、父同様バーミンガム市長となる。
国会議員

第一次世界大戦終結間際の1918年に行われた選挙で保守党より立候補し下院議員となり、1923年からボールドウィン内閣の蔵相、その後の内閣では保健相を務めた。1930年、ボールドウィンの後を受けて保守党の幹事長に就任。1931年世界恐慌に突入する中、労働党マクドナルド挙国一致内閣を組閣するとチェンバレンは再び蔵相を務めた。この間、財政の立て直しに手腕を発揮したことが評価され、マクドナルド後にボールウィンが再び登板して組閣した際も蔵相を続投した[1]
首相職
就任

1937年5月28日に、スタンリー・ボールドウィンの後を受けて保守党党首およびイギリス首相の座に就く。なお直前の5月12日には、新国王のジョージ6世が戴冠式を行ったばかりであった。
内政

資本家寄り」とされる保守党党首にもかかわらず、就任後すぐに、これまで制限が設けられていなかった女性子供労働時間に制限を掛ける法律を通過させたほか、有給休暇関連法や家賃統制など、労働者の権利を優先させる法律の制定に尽力した。
外交詳細は「宥和政策」を参照ミュンヘン会談においてベニート・ムッソリーニアドルフ・ヒトラーとともにミュンヘン会談からの帰国後に会見するチェンバレンフランスを訪れたチェンバレン(1939年12月)

当時イギリスやフランスと軍事増強と領土の拡大を進めるドイツイタリアなどとの間で政治的緊張が増す中、チェンバレンがフランスのエドゥアール・ダラディエとともにドイツのアドルフ・ヒトラーや、イタリアのベニート・ムッソリーニに対して取った宥和政策は、1938年9月29日ミュンヘン会談において締結された「ミュンヘン協定」で頂点に達した。

イギリスの一部やアメリカなどのその後の連合国から称賛されたこの宥和政策により、結果的には第二次世界大戦の勃発が1年引き延ばされることになる。これは、ドイツの関心をソビエト連邦に向けさせる意味と、イギリスの防備の時間稼ぎをする意味があったとされるが、ウィンストン・チャーチルはこれを「この期間にイギリスが軍備の近代化を進めたのは事実だが、同時にドイツも軍備の強化を行いより強力な軍備を作り上げた」と批判している。

なお当時の保守勢力の主流にとって、ソ連を頂点とする社会主義陣営や、彼らによる共産主義革命の誘発への警戒心は強かった。そこで、ヒトラー政権を抑えてソ連に付け入る隙を与えるよりは、対ソの抑止力となることを期待したのである。イギリスが、世界をにぎわせたスペイン内戦に不介入で通したのも、介入すればそれが世界大戦の引き金になり、ソ連を喜ばせるだけであるという判断があったからであるとされている。


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