ネワール族
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ネワール族ネワール族の伝統衣装を着た女性
総人口
約1,322,000人[1]
(ネパール総人口の5.48%)
居住地域
ネパールカトマンズ盆地とその周辺
言語
ネパール・バサ語(ネワール語), ネパール語
宗教
ヒンズー教ネワール仏教
関連する民族
ミティル族; パハーリー族; その他のインド・アーリア人; チベット・ビルマ人

ネワール族【ネワール語: ?????、別名: ネワ(????),ネワル,ネパミ[2]、プラカリット・スクリプト体:?????】は、ネパールのカトマンズ盆地とその周辺地域に居住している民族であり、カトマンズ盆地一帯における歴史的遺産と文明を作り上げた。[3]ネワール族は主にインド・アーリア人と、ヒンズー教仏教を信仰しチベット・ビルマ語派ネワール語(ネパール・バサ語)を共通言語とするチベット・ビルマ人であり、独自の言語的・文化的コミュニティを形成している。[4]ネワール族はヒマラヤ山脈麓のどの地域にもみられない分業制度と洗練された都市文化が発展しており、古くからの伝統や儀式を現代まで途切れさせることなく受け継いでいる。[5]ネパール古来の宗教、文化、文明の継承者とも言われており[6]、文化、芸術、文学、貿易、農業、料理への貢献で知られる[7] 。現在、ネワール族は毎年国際連合開発計画が発行する人間開発指数により、一貫してネパールで最も経済的および社会的に進んだコミュニティと認定されている[8]。ネパールの2011 年の国勢調査では、ネパール全土に 1,321,933 人のネワール族がおり、ネパール国内で 6 番目に人口の多い民族とされる。[9]

古代、カトマンズ渓谷とその周辺地域はネパール・マンダラと呼ばれる古代連合国家を構成する旧ネワール王国であり、[10][11]ネパール国内におけるほかの民族やカーストグループとは異なり、ネワール族は民族的に多様で、古代に存在した政治体の特性を残す数少ない国家共同体の一例であった。[12]尚且つネワール族は、先史時代からネパール・マンダラに住んでいた多様な民族の子孫である為、他の民族と比べても人種、カースト、宗教等の異質性は群を抜く。それぞれ異なる時代にネワール族と接触したリッチャヴィ族(リッチャヴィ朝)、コーサラ族(コーサラ国)、マッラ族(マッラ朝)等のインド・アーリア人はネワール族の言語・慣習を受け入れることで最終的に融合していった。しかしこれらの部族はヴェーダ文化を捨てたわけではなく、サンスクリット語ヴェーダ文化における社会構造、ヒンズー教などをもたらし、これらが人々と共に同化し、現在のネワール文化に繋がった。[13]ネパール・マンダラによる支配は1768年のゴルカ王国の征服によって幕を閉じた。[14][15]
語源

ネパール「Nep?l」、ネワール「New?r」、ネワール「New?l」、およびネパール「Nep?r」という言葉は、同じ単語の音声学的に異なる形式であり、異なる時代で異なる形式のものが使われている。ネパール「Nep?l」は文語(サンスクリット語)形式、ネワール「New?r」は口語(プラクリット語)形式である。[16]カトマンズの西に位置する谷、ティスタンにある512年のサンスクリット語の碑文には『ネパールへの挨拶』という文が含まれており、「ネパール」という単語がネワール王国とネワール族の両方を指すために使用されていたことを示している。[17][18]

「ネパールの住民」を指す「ネワール」または「ネワ」という単語は、カトマンズの1654年の碑文に初めて登場した。[19] 1721年にネパールを旅したイタリア人のイエズス会司祭イッポリト・デシデーリ(1684-1733)は、ネパールの原住民はネワールと呼ばれていると記している。[20]よって「ネパール」は「ネワール」のサンスクリット語訛りであるか、「ネワール」は「ネパール」が後に変形した形である可能性がある。[21]また別の説によると、「ネワール」と「ネワリ」という言葉は、PからWへ、LからRへの変移から形成された口語的な形であるとされる。[22]

最後の子音を落として母音を長くする音韻過程の結果として、「New?」はネワール(「New?r」) 、「Nep?」はネパール(「Nep?l」)が通常会話においてよく使われている。[23][24]
歴史紀元前6世紀頃の十六大国; リッチャヴィ朝の前身であるヴァジ・マハジャナパダとマッラ朝の前身であるマッラ・マハジャナパダがみられる

千年以上もの間、中央ネパール(2015年時点の中部開発区域)に位置するネワール文明はバラモン教仏教が同等の地位を享受していた古典的な北インド文化を遺している。マッラ朝はマッラ宮廷においてミティル語(ミティル族の主要言語)を後援しサンスクリット語と同等の地位を与えたことで知られ、ブラフマー教司祭を始めとする多くのミティル族がマッラ朝時代にカトマンズに招待され定住した。これらの北(チベット)と南(ティルフト)の両方からの人々の流入は遺伝的及び人種的多様性だけでなく、ネワール族内の重要な文化と伝統を形作った。

ネワール族の共通性はカトマンズ盆地で形成されたが、後の時代のネワール族の居住の区分は様々な歴史的発展を遂げることとなる。1769年ゴルカ王国カトマンズ渓谷を征服するまで、どの時代においても渓谷に住む人々はすべてネワール族もしくはネワール族を祖先とする民族であった。したがってネワール族の歴史は近代的なネパール国家が樹立される前のカトマンズ盆地(もしくはネパール・マンダラ)の歴史と相関関係にある。


パタンのネワール建築

ネワール族はその長い歴史から高度な都市文明を形成しており、ネワール族とカトマンズ渓谷の最古の歴史は史籍に記録されている神話と交じっている。ネワール族内ではカトマンズ渓谷の創造神話が語り継がれており、インド文献史の仏教叙事詩『スワヤンブプラーナ』にもカトマンズ渓谷の創造に言及する文言がある。この経典によると、遥か昔、カトマンズは14km四方の大きな湖で、湖の中央には千本もの花弁のある蓮華の花が咲いていた。自生仏陀世尊は燃え盛る炎の中で、文殊菩薩がこの湖の水を吸い出せば、この地は人々にとって幸せな宝の地となることが出来るだろうと予言した。しかし、この行動は湖中に住むクリカ龍王という名の龍を激怒させた。龍王は故意に湖の水を溢れさせ、湖を氾濫させ、人々に水害の苦しみを与えた。人々はその苦しみの中で、真心を込めて三宝に帰依し、一心に観音菩薩の庇護を願った。そこで観音菩薩文殊菩薩カトマンズに遣わせ、文殊菩薩は龍王を説得し、衆生を済度した。クリカ龍王は文殊菩薩に従った後、人々の苦しみを解き、仏法に帰依したという。[25]この神話には、水害ではなく干ばつが起こり、12年もの間、雨が降らず、土地が乾き、土にひび割れができたという別バージョンの話も存在する。近年この地で湖床跡が発見され、また盆地自体が非常に肥沃なことなどからも地学的にもこの神話がある程度の事実を示していると考えられている。[26]

『スワヤンブプラーナ』によると文殊菩薩はその後、マンジュパタン(サンスクリット語でマンジュシュリー/文殊菩薩が築いた都の意)と呼ばれる都市を築き、ダルマカーラを王とした。[27]現在その場所はマンジパーと呼ばれる。マンジパーには文殊菩薩を祀る寺院が現存しているが、この時代以降、ゴパル時代の到来までの間のネワール族及びカトマンズ渓谷に言及している歴史的文書・碑文は発見されていない。ゴパル時代の王の系図はゴパララジャヴァムサバリ(Gopalarajavamsavali)と呼ばれる史籍に記録されている。[28]この史籍によると、リッチャヴィ朝が南から侵入する前にゴパル朝に続いてマヒスパル朝とキラット朝が続いたとされる。


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