ネルソン・マンデラ
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ネルソン・マンデラ
Nelson Mandela

ネルソン・マンデラ(1994年撮影)
南アフリカ共和国
第8代 大統領
任期1994年5月10日1999年6月14日
副大統領フレデリック・デクラーク
ターボ・ムベキ
アフリカ民族会議
第11代 議長
任期1991年7月7日1997年12月20日
非同盟諸国首脳会議事務総長
第20代 事務総長
任期1998年 – 1999年
南アフリカ共和国
国民議会議員
任期1994年5月 – 1999年6月

出生 (1918-07-18) 1918年7月18日
南アフリカ連邦トランスカイクヌ
死去 (2013-12-05) 2013年12月5日(95歳没)
南アフリカ共和国ハウテン州ヨハネスブルグ
政党アフリカ民族会議
南アフリカ共産党
出身校フォートヘア大学
ロンドン大学
南アフリカ大学
ウィットワーテルスランド大学
配偶者エブリン・メイス(1944 ? 1957)
ウィニー・マンデラ(1958 ? 1996)
グラサ・マシェル(1998 ? 2013)
子女7人
署名

ノーベル賞受賞者
受賞年:1993年
受賞部門:ノーベル平和賞
受賞理由:アパルトヘイト体制を平和的に終結させて新しい民主的な南アフリカの礎を築いたため[1]

ネルソン・ホリシャシャ・マンデラ(コサ語: Nelson Rolihlahla Mandela [xoli?a?a mand???la]1918年7月18日 - 2013年12月5日)は、南アフリカ共和国政治家弁護士。第8代南アフリカ共和国大統領非同盟諸国首脳会議事務総長(第20代)、南アフリカ共和国国民議会議員(1期)、アフリカ民族会議議長(第11代)、南アフリカ共産党中央委員を歴任した。

若くして反アパルトヘイト運動に身を投じ、1964年に国家反逆罪で終身刑の判決を受ける。27年間に及ぶ獄中生活の後、1990年に釈放される。翌1991年アフリカ民族会議(ANC)の議長に就任。当時の大統領フレデリック・デクラークとアパルトヘイト撤廃に尽力し、1993年にデクラークと共にノーベル平和賞を受賞。1994年、南アフリカ初の全人種が参加した普通選挙を経て大統領に就任。民族和解・協調政策を進め、経済政策として復興開発計画(RDP)を実施した。1999年に行われた総選挙を機に政界を引退した。

南アフリカ共和国での愛称はマディバ、タタ(父)[2]。マディバとは彼の先祖が誰かを象徴する氏族名であり、部族社会の影響が残る南アフリカでは単なる愛称ではなく、尊称に近いものである。ミドルネームのホリシャシャはコーサ語で「トラブルメーカー」の意味。
来歴
反アパルトヘイトの闘士青年時代 1937年頃

マンデラは1918年7月18日トランスカイウムタタ近郊クヌ村で、テンブ人(アフリカーンス語版)の首長の子として生まれた。少年時代には、首長から、部族社会の反英闘争の歴史や、部族の首長が持つべきリーダーシップや寛容の精神を聞いて育った。この時の経験が、彼の反アパルトヘイト運動を根底から支えた[3]。メソジスト派のミッションスクールを卒業した後、フォートヘア大学で学ぶ。在学中の1940年には、学生ストライキを主導したとして退学処分を受ける。その後、南アフリカ大学の夜間の通信課程で学び1941年に学士号を取得した。また、その後、ウィットワーテルスランド大学(英語版)で法学を学び、学士号を取得した。1944年にアフリカ民族会議(ANC)に入党。その青年同盟を創設し青年同盟執行委員に就任して反アパルトヘイト運動に取組む。

1948年ダニエル・マラン率いる国民党が選挙に勝利し政権を奪取すると、新政権は急速にアパルトヘイト体制を構築していき、ただでさえ制限されていた黒人の権利はさらに制限されるようになった。このためANC内でも政府へのより強硬な対決姿勢を求める声が高まっていき、なかでも青年同盟の有力メンバーであるマンデラはその先頭に立っていた。1949年には穏健な旧指導部を追い落とし、青年同盟からマンデラ、ウォルター・シスルオリバー・タンボが指導部メンバーに選出され、以降ANCは請願路線からストライキデモなどを盛んに行って政府に圧力をかける戦術(反抗キャンペーン(英語版))に転換した[4]1950年、ANC青年同盟議長に就任。アフリカ民族会議を構成する南アフリカ共産党にも密かに入党し、党中央委員を務めるようになる。1952年8月にはヨハネスブルグにてフォート・ヘア大学で出会ったオリバー・タンボと共に、黒人初の弁護士事務所を開業する。同年の12月にANC副議長就任。1955年6月25日及び26日には、ANCは他の政治団体とともに、ヨハネスブルク郊外のクリップタウンにおいて全人種の参加する人民会議を開催して自由憲章を採択し、自由民主主義を旗印とするようになった[5]。こうした活動は南アフリカ政府ににらまれ、マンデラはじめ人民会議の主要な参加者たちは1956年に国家転覆罪で逮捕され裁判にかけられたが、無罪となった[6]

しかしこうした活動の中で、非暴力的手段の限界が叫ばれるようになり、ANC内でも武装闘争を支持する声が大きくなっていった。そして1960年にシャープビル虐殺事件が起きると、マンデラも武装闘争路線へと転換し、1961年11月、ウムコントゥ・ウェ・シズウェ(民族の槍)という軍事組織を作り、その司令官となった。しかし、それらの活動などで1962年8月に逮捕される。また、1963年7月にはウォルター・シスルやゴバン・ムベキといったANC指導部がヨハネスブルク近郊のリヴォニアにおいて逮捕され、すでに獄中にあったマンデラもこの件で再逮捕された。
27年間の投獄マンデラが収監されていたロベン島収容所

リヴォニア裁判(英語版)と呼ばれるこの裁判で、マンデラは1964年に国家反逆罪で終身刑となり、ロベン島の刑務所に収監された[注釈 1][7]1969年5月には、イギリス人傭兵の有志が集まり、マンデラを救出する作戦が立てられたことがあったが、南アフリカ側への情報漏れで失敗に終わっている[8]。収監は27年にも及び、マンデラはこの時期に結核を始めとする呼吸器疾患になり[9]石灰石採掘場での重労働によって目を痛めた[10]


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