ネルソン・マイルズ
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ネルソン・アップルトン・マイルズ
Nelson Appleton Miles
1839年8月8日-1925年5月15日(満85歳没)
ネルソン・アップルトン・マイルズ将軍
生誕マサチューセッツ州ウェストミンスター
死没ワシントンD.C.
軍歴1861年-1903年
最終階級中将
指揮アメリカ陸軍総司令官
戦闘

南北戦争

アンティータムの戦い

フレデリックスバーグの戦い

チャンセラーズヴィルの戦い

荒野の戦い

スポットシルバニア・コートハウスの戦い

アポマトックス方面作戦
インディアン戦争
米西戦争
勲章名誉勲章
除隊後プエルトリコ総督
墓所アーリントン国立墓地
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ネルソン・アップルトン・マイルズ(Nelson Appleton Miles、1839年8月8日-1925年5月15日)は、南北戦争インディアン戦争および米西戦争に従軍したアメリカ合衆国軍人である。
初期の経歴

マイルズはマサチューセッツ州ウェストミンスターにある家族の農園で生まれた。ボストンで働き夜学に通って、軍事史を読み、戦闘演習を含み軍隊の原則や技術を身につけた。
南北戦争

南北戦争が始まった時、マイルズはボストンの食器店で事務員をしていた。1861年9月9日に志願兵として北軍に入隊し、多くの重要な戦闘に参戦した。第22マサチューセッツ歩兵連隊の中尉となり、1862年5月31日には第61ニューヨーク歩兵連隊の中佐に任官された。アンティータムの戦い後に大佐に昇進した。そのほかにもフレデリックスバーグの戦いチャンセラーズヴィルの戦い、およびアポマトックス方面作戦に参加した。戦闘で4度負傷し(チャンセラーズヴィルでは首と腹を負傷した)、チャンセラーズヴィルでの功績を認められて、志願兵の准将への名誉昇進を果たし、名誉勲章も受章した。荒野の戦いスポットシルバニア・コートハウスの戦いでの功績により1864年5月12日に准将となり、最終的には26歳で少将にまでなった。
インディアン戦争

1866年7月、マイルズは正規軍の大佐に指名された。1869年3月、第5アメリカ歩兵連隊の指揮官となった。1868年6月30日にメアリー・ホイト・シャーマンと結婚した。メアリーはホイト・シャーマンの娘、ウィリアム・シャーマンジョン・シャーマンの姪であり、チャールズ・R・シャーマンの孫娘だった。

マイルズはグレートプレーンズのアメリカ・インディアン種族に対する陸軍の作戦のほとんど全てで指導的役割を担った。1874年から1875年カイオワ族、コマンチ族およびレッド川沿いの南部シャイアン族を破る部隊の野戦指揮官だった。1876年から1877年の間では、ジョージ・アームストロング・カスター中佐がリトルビッグホーンの戦いで敗れた後は、北部平原を平定する作戦に参加し、スー族やその同盟種族を保留地に押し込めた。1877年冬、モンタナ州を横切る強行軍を行い、ジョセフ酋長に率いられたネ・ペルセ族の部隊を止めた。ネ・ペルセの指導者ジョセフ酋長はインディアン準州に監禁され、その窮状を批判する世論が高まる中、マイルズは次第にジョセフと心を通わすようになり、その軍歴の残り期間、オリバー・O・ハワード将軍と争うことになった。戦略的には、イェローストーンに居る間に、通信信号を送るための日光反射信号機実験で専門知識を広げた。これは陸軍信号司令部のアルバート・J・マイアー准将が支給したものだった[1]

1886年アリゾナ州におけるジェロニモたちアパッチ族の抵抗戦(アパッチ戦争)に対する軍指揮官としてジョージ・クルック将軍と交代した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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