ネルソン・バンカー・ハント
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ネルソン・バンカー・ハント
生誕 (1926-02-22)
1926年2月22日
アーカンソー州エル・ドラド, アメリカ合衆国
死没2014年10月21日(2014-10-21)
国籍アメリカ合衆国
職業石油・採鉱業
競走馬オーナー
政党共和党 (アメリカ)
親H. L. ハント(父)
ライダ・バンカー(母)

ネルソン・バンカー・ハント(Nelson Bunker Hunt、1926年2月22日 - 2014年10月21日)はアメリカ合衆国の投機家・石油会社経営者。
目次

1 人物

2 経歴

3 銀の木曜日

4 政治

5 サラブレッド競馬

6 参照元

7 関連項目

8 外部リンク

人物

石油採掘で財をなした石油王のH.L.ハントを父とし、アーカンソー州エル・ドラドに生まれる。弟のウィリアム・ハーバート・ハント (William Herbert Hunt) とともにの世界市場の買い占めを図り、これに失敗して破産した事件で知られる[1]

テキサス州ダラス在住[2]。1980年のサラブレッド競走馬のブリーダーとして著名[3]アメリカン・フットボール・リーグカンザスシティ・チーフスの創設者であるラマー・ハント (Lamar Hunt) は弟。2014年10月21日、88歳で死去。
経歴

ハントは、のちにムアンマル・アル=カッザーフィーによって国有化されたリビア油田の発見と開発に大きく関わった[4]。ハントは北アフリカの石油開発事業を行うタイタン・リソーセズ社(Titan Resources Corporation、本社:テキサス州ダラス)を所有していた[5]とともに、ハント探鉱・採鉱社 (Hunt Exploration and Mining Company、略:HEMCO) の理事を務めた。

銀投機により破産してのち、非上場の同族企業ペトロ・ハントを経営し、ハント一族の本来の家業だった石油事業に携わっていた。石油ブームで晩年には億万長者に返り咲き、フォーブスの推計では、弟のウィリアム・ハーバート・ハントの資産価値は、2013年に30億ドルであった[6]
銀の木曜日

バンカーと弟のウィリアムは、石油事業で蓄えた一族の資金力を背景に、1970年代より商品先物取引市場で投機を行うようになった。70年代末にはシカゴ商品取引所大豆の買占めに乗り出し、資金力にまかせて価格を吊り上げ、作柄から大豆は過剰価格と判断して売り向かった新興穀物メジャークック・インダストリーズ倒産に追い込んでいる。

その後、ハント兄弟はオイルマネーがうなるアラブ勢を仲間に、先物の買い建てを大規模にやりだした。1979年には、世界の銀在庫をほぼ独占するほどのポジションを持っていた[7]。兄弟は銀投機により1979年12月までの9か月間で推定20億から40億ドルの利益を得ており、推定銀保有量は1億オンス、90億ドル相当(当時のレートで約2兆円)であった[8]。ハント兄弟が銀の買占めをはじめた1979年から、銀先物取引と現物の銀価格は、79年9月の1オンス11ドルから1980年1月の50ドルまで値上がりした。

シカゴ取引所は証拠金を引き上げるなどの対策を講じた。するとハント一族は、買いポジションを維持できなくなり、シルバーフィックスの示す銀価格は暴落に転じた。1980年3月27日の取引は「銀の木曜日」と呼ばれる史上最大の暴落を記録した[1]。最終的に銀価格は数ヶ月で80%以上下落し、同年の9月には1オンス11ドル以下になった[9]

このシルバーショックは銀だけに終わらなかった。兄弟の債権者が驚き、担保にとっていた銀と株式を津波のように売り出した。ウォール街は当然パニックへ突き落とされた。先物取引にこれほど株式市場を左右されたことは、それまでになかった。このような事態を当時の市場規制は全然想定していなかったし、当局もこの時はろくに動けていなかった。売り逃げようとする投資家は、当時のアナログな決済方式にしびれを切らした。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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