ネルウァ
[Wikipedia|▼Menu]

ネルウァ
Marcus Cocceius Nerva
ローマ皇帝
ネルウァ全身像(ヴァチカン美術館)
在位96年9月18日 - 98年1月27日

全名マルクス・コッケイウス・ネルウァ
Marcus Cocceius Nerva
マルクス・コッケイウス・ネルウァ・カエサル・アウグストゥス(即位後)
Marcus Cocceius Nerva Caesar Augustus

出生35年11月8日
ナルニイタリア本土
死去 (0098-01-27) 98年1月27日(62歳没)
ローマイタリア本土
継承トラヤヌス
配偶者無し
子女トラヤヌス(養子)
王朝ネルウァ=アントニヌス朝
父親マルクス・コッケイウス
Marcus Cocceius
母親セルギア・プラウティッラ
Sergia Plautilla
テンプレートを表示

マルクス・コッケイウス・ネルウァ(ラテン語: Marcus Cocceius Nerva Caesar Augustus[1] 35年11月8日 - 98年1月27日[要出典])は、第12代ローマ皇帝で、ネルウァ=アントニヌス朝の初代皇帝。

フラウィウス朝断絶後の混乱の中で皇帝に即位したが、老齢で跡継ぎが望めなかった為に腹心であるトラヤヌスを王朝の後継者とした。以降、トラヤヌスの親族達により帝位は継承されていった為、新王朝成立の重要な契機を与えた存在でありながら歴代君主と血縁関係にないという特異な立場を持つ事になった。

ネルウァはユリウス=クラウディウス朝最後の君主ネロ、及び続いて成立したフラウィウス朝に仕えて立身を果たした。ネロ帝の時代にはピソの陰謀(英語版)を防いだ活躍で知られる。ネロ自害後の内乱ではフラウィウス朝を支持してウェスパシアヌス帝から71年の執政官に叙任され、その息子ティトゥスドミティアヌスの代にも執政官に任命されるなど王朝の重臣として重用された。

ドミティアヌス暗殺後、元老院によってネルウァは皇帝に推挙された。それまで単に帝位を追認するだけの存在に成り下がっていた元老院の主導で皇帝選出が行われた初の事例となった。ネルウァ帝は既に65歳という当時ではかなりの高齢になっていた事から臨時的な皇帝就任と考えられ、主にドミティアヌス時代に迫害された人々の名誉回復に努めた。しかし軍の掌握については思うように進められず、軍の実力者であった将軍トラヤヌスを後継者にする事を交換条件に支配下に置いた。即位から15ヶ月後にネルウァ帝は病没し、トラヤヌスが義理の息子として帝位を継承した。

治世の短さに加えて人生の大半を占める即位前の記録が乏しいこともあり、ネルウァ帝についての評価は明確に定まっていない。よく見られる通俗的評価としては、自らの血縁でない人間に帝位を譲ったという逸話から「温厚で野心を持たない人物」と解釈される場合が多い。しかし近年は帝位を譲ったのは軍の圧力に屈した為であり、弱い皇帝権しか持つことができなかったという側面が強いと考えられている。とはいえ、先述した通りトラヤヌスとその血族による王朝設立に契機を与えたのは紛れも無くネルウァ帝であり、歴代君主から崇敬される王朝の祖であった。
生い立ち[ソースを編集]
出自[ソースを編集]

補充執政官の経験者である元老院議員マルクス・コッケイウス・ネルウァ(同名)とセルギア・プラウティッラの子としてイタリア本土の都市ナルニに生まれる[2]。記録によれば30年から35年の間に生まれたとされている[3]。姉妹のコッケイアはオト帝の兄弟であるルキウス・サルウィウス・オト・ティティアヌス(英語版)に嫁いでおり、両家は親族関係にあった[2]

後にフラウィウス朝を開くウェスパシアヌス帝がそうであったように、ネルウァ家が属するコッケイウス氏族はイタリア本土の裕福な氏族ではあったが、上流氏族ではなかった[4]。それでもコッケイウス氏族とネルウァ家は帝政期から突出した力を持つ勢力へと成長を遂げた。曾祖父は紀元前36年に執政官を務めた後にアシア総督となり、祖父はティベリウス帝の重臣として21年に補充執政官となりカプリ島隠棲にも同行したとされ、父はカリグラ帝時代の西暦40年に補充執政官へと指名された[5]。また母方の叔父にあたるセルギア・プラウティッラの弟オクタウィウス・ラエナスはティベリウス帝の曾孫娘にあたるルベッリア・バッサ(英語版)と結婚していた[4]
帝国内での立身[ソースを編集]

宮殿に出入りし始めた頃のネルウァについて記録は殆ど残っておらず、軍や元老院で継続的に何かの役職に就いていた形跡もない。歴史の表舞台に立つのは西暦65年に法務官へ指名された時からで、先祖と同じく外交や権謀術数を得意とする政治家として活躍し始めた[2]。彼は同年に発生したネロ帝に対する暗殺未遂事件(ピソの陰謀(英語版))を未然に防いだと言われている。謀議の暴露にどれほどの貢献をしたのかは定かではないが、この一件でネルウァは宮殿内の地位を確かなものにした。同じく貢献を認められたガイウス・オフォニウス・ティゲッリヌスプブリウス・ペトロニウス・トゥルピリアヌスと並んで凱旋式を行う許可を受け、ネルウァの胸像が街中に飾られた[2]

ネロ時代の実力者として台頭したネルウァは他の重臣団の中では後に帝位を簒奪するウェスパシアヌスと親友の間柄であった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:96 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef