ネフェルティティの胸像
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ネフェルティティの胸像

材質石灰岩化粧漆喰[1]
製作古代エジプトの彫刻家トトメス(紀元前 1345年)
発見1912年: アマルナ, エジプト
所蔵新博物館, ベルリン, ドイツ

『ネフェルティティの胸像』(ネフェルティティのきょうぞう)は、エジプト新王国時代の第18王朝のファラオだったアメンホテプ4世の正妃ネフェルティティをモデルとした彩色石灰岩彫刻。古代エジプトの芸術作品のうちで多く模倣された作品の一つで、ネフェルティティは女性美の象徴としてもっとも有名な古代の女性のひとりとなった。この胸像は古代エジプトの彫刻家トトメス (Thutmose) が紀元前1345年に制作したものとされている[2][3][4]
目次

1 歴史

1.1 背景

1.2 発見


2 ドイツでの保管場所

3 エジプトからの返還要求

4 外観と調査

4.1 彩色

4.2 不完全な左目

4.3 CT スキャン


5 贋作の議論

6 文化的価値と評価

7 出典・脚注

8 参考文献

9 関連項目

10 外部リンク

歴史
背景 アメンホテプ4世の胸像詳細は「ネフェルティティ」および「アメンホテプ4世」を参照

ネフェルティティ(「美しい人の訪れ」を意味する)は、紀元前14世紀の古代エジプトのファラオだったアメンホテプ4世の正妃である。アメンホテプ4世は太陽円盤アテンを唯一神とする新しい一神教 (Atenism) を始めた[2]。ネフェルティティについてはほとんど分かっておらず、異国の王女だったという説と、エジプト王家の一人で後にツタンカーメンの後を襲ってファラオになるアイの娘という説がある。ネフェルティティは紀元前1352年から1336年にファラオとして在位したアメンホテプ4世とともにエジプトを統治し[2]、アメンホテプ4世との間に6人の娘を儲けた。そのうちの一人が後にツタンカーメンと結婚して王妃になるアンケセナーメンである。ネフェルティティの記録はアメンホテプ4世の治世中13年で消えている。これがネフェルティティの死によるものか、あるいは改名しており、その名前が現在に伝わっていないだけなのかは分からない。アメンホテプ4世の死後、ネフェルティティが短期間ではあるが王座を継いてエジプトを統治したという説もある[2][5]
発見

ネフェルティティの胸像はユダヤ系ドイツ人考古学者ルートヴィヒ・ボルヒャルト(ドイツ語版)率いるドイツ・オリエント協会 (Deutsche Orient-Gesellschaft、DOG) によって、1912年12月6日にナイル川河畔のアマルナで発掘された。彫刻家トトメスの工房跡で発見され、そこからは他の未完成のネフェルティティの胸像が数点発見されている[6][7]。ボルヒャルトの日記には出土品のことが「我々は突然とても生き生きとしたエジプトの美術品を手に入れた。とても言葉に出来ず、実際に見るほかない」と書かれている[8]

DOGの記録から発見された1924年の文書に、1913年1月20日にボルヒャルトとエジプト政府職員とで、1912年に出土した考古学的遺物のドイツとエジプト間の分配について会合が持たれたことが記述されている。その会合に出席し、この文書の記述者でもあった書記官によるとボルヒャルトは「自分たちが胸像を手に入れたい」と考え[1][9]、そしてボルヒャルト自身は否定したが[10]、胸像の本当の価値を秘密にしていた疑いがもたれている[11]

この「見事な腕前」に対して作家フィリップ・ファンデンベルクは「大胆で想像を絶するやり方」と非難し[12]タイム誌は「略奪された美術品トップ10」にこの胸像をあげた[13]。ボルヒャルトは「ネフェルティティの美しさを写し出していない」胸像の写真をエジプト政府職員に見せた。エジプト側の主席古美術品調査官ギュスターヴ・ルフェーヴルが調査に訪れたときに、この彫像は梱包されて箱に詰められていたのである。さらにこの文書にはボルヒャルトがエジプト政府職員にこの胸像が石膏像であると誤解するように仕向けたことも暴露している。DOGは胸像は交換リストの最初に記載されていたことをあげて、調査官の怠慢であり、取引は公正に行われたと主張している[9][14]
ドイツでの保管場所 現在『ネフェルティティの胸像』が所蔵されているベルリンの新博物館

『ネフェルティティの胸像』はベルリンに運ばれ、ユダヤ系ドイツ人の実業家でアマルナ発掘の後援者でもあったジェームズ・ジーモン(ドイツ語版)[7]に寄贈された1913年以来ドイツにある[1]。1913年にはジーモンの邸宅に飾られており、その後ほかのアマルナからの出土品とともにベルリン美術館に貸し出されている[15]。1914年までほかのアマルナ出土品はベルリン美術館に展示されたが、ボルヒャルトの要望で『ネフェルティティの胸像』の存在は秘密にされていた[12]。1918年にベルリン美術館は秘密にしていたこの胸像を一般公開することを検討したが、またもボルヒャルトからの要望で計画は頓挫してしまう[15]。その後胸像は1920年にベルリン美術館に寄贈され、1923年にボルヒャルトの文書でその存在が公となり、1924年後半になってベルリンのエジプト美術館で一般公開された[15][12]。その後、胸像は博物館島新博物館で展示されている。第2次世界大戦勃発によりベルリン美術館が所蔵していた古代遺物がすべて安全な場所に移され、ベルリン美術館が閉鎖される1939年までそのまま新博物館に展示されていた[7]。『ネフェルティティの胸像』は当初帝国銀行の地下金庫に保管され、1941年の秋になってベルリンの高射砲塔防空壕に移された[15]


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