ネビル・シュート
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ネヴィル・シュート
ネヴィル・シュート(1949年)
現地語名Nevil Shute
誕生Nevil Shute Norway
(1899-01-17) 1899年1月17日
イングランド ミドルセックス州イーリング
死没1960年1月12日(1960-01-12)(60歳)
オーストラリア ビクトリア州メルボルン
職業小説家
航空工学者
国籍 イギリス
オーストラリア(1950年から)
代表作『渚にて』(1957年
ウィキポータル 文学
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ネヴィル・シュート・ノーウェイ(Nevil Shute Norway、1899年1月17日 - 1960年1月12日)は、イギリス小説家航空技術者である。晩年はオーストラリアに移住した。小説家としてはネヴィル・シュートの筆名を使用した。
若年期

シュートは1899年1月17日イーリング(当時はミドルセックス州。現在はロンドンの一部)のサマセット・ロードで生まれた。生家については『海の彼方の遺産を追って』(Trustee from the Toolroom)に登場する。

ドラゴン・スクール(英語版)、シュルーズベリー・スクールオックスフォード大学ベリオール・カレッジで教育を受け、1922年に工学の第3級学位を取得して卒業した。

父のアーサー・ハミルトン・ノーウェイは、第一次世界大戦以前にアイルランドで郵便局長となり、1916年のイースター蜂起のときにはダブリン中央郵便局に所属していた。シュート自身もイースター蜂起において担架運搬人(英語版)として活動し、表彰を受けている[1][2]

シュートはウーリッジ王立陸軍士官学校に入学し、砲手としての訓練を受けた。第一次世界大戦のとき、希望する陸軍航空隊に入隊することができなかったが、シュートはそれを自身の吃音が理由だと信じていた。1918年8月、サフォーク連隊(英語版)に下士官として入隊した。テムズ河口のグレイン島(英語版)の警備の任務につき、1918年のスペインかぜの流行時にはケント州の軍葬に参列した[1]
航空分野におけるキャリア

1922年、大学卒業後にデ・ハビランド・エアクラフトに航空工学者兼パイロットとして入社した。この頃からネヴィル・シュートのペンネームで小説を執筆するようになったが、ペンネームを使ったのは、雇用主や同僚から「真面目な人間ではない」と思われたり[3]、小説の内容が会社にとって不利益になったりする可能性があったためだった[4]

1924年、昇進の機会がないことに不満を持ってヴィッカースに移籍し、ヴィッカースの子会社のエアシップ・ギャランティーで飛行船R100(英語版)プロジェクトの応力解析(英語版)のための首席計算官となった。1929年にバーンズ・ウォリスの下でプロジェクトの副主任技師に昇進し、ウォリスがプロジェクトから離れると、シュートが後任の主任技師となった[1]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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