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ネパール王国
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nep?la adhir?jya
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(英語: "May Glory Crown You, Courageous Sovereign")
公用語ネパール語
首都カトマンズ
マハーラージャーディラージャ
(国王)
1768年 - 1775年プリトビ・ナラヤン・シャハ
2001年 - 2008年ギャネンドラ・ビール・ビクラム・シャハ
首相
1799年 - 1804年ダモダル・パンデ
2006年 - 2008年ギリジャー・プラサード・コイララ
面積
2008年140,800km²
人口
2008年29,331,000人
変遷
ネパールの統一1768年12月21日
清・ネパール戦争1788年 - 1792年
イギリスの保護国化1816年3月4日
ラナ家が実権を掌握1846年9月15日
清への朝貢を停止1912年
独立回復1923年
王政復古1951年2月
王制廃止、共和制へ2008年5月28日
通貨ネパール・ルピー
時間帯UTC +5:45
ccTLD.np
国際電話番号977
現在 ネパール
ネパール王国(ネパール語: ????? ???????? nep?la adhir?jya、英語:Kingdom of Nepal)は、1768年12月21日から 2008年5月28日まで続いたネパールの王国。ネパールの王政時代全般を指す。前身はゴルカ王国。
1816年、イギリスにグルカ戦争で敗北し、その保護国となったが1923年に独立した。1846年には宰相のラナ家に実権を奪われるが、1951年に王政復古で実権を取り戻して立憲君主国となった。2008年、王政が廃止されネパール連邦民主共和国となった。目次 1484年にラーヤ・マッラのバクタプル・マッラ朝から、ラトナ・マッラのカトマンズ・マッラ朝が独立。1619年にシッディナラシンハ・マッラのパタン・マッラ朝が独立し、マッラ朝は三王国時代に入る。 16世紀、ヤショー・ブラフマ・シャハ 1559年、ヤショー・ブラフマの子、ドラヴィヤ・シャハ(Dravya Shah)がゴルカ王国を確立[1]。当時、ネパールは多くの独立した小国に分かれており、ゴルカは二四諸国にも数えられないほどの小国であった[2]。 1743年、プリトビ・ナラヤン・シャハがゴルカ王(第10代)を継承、ネパール統一に乗り出す。 1767年のキルティプルの戦い
1 歴史
1.1 前史
1.2 ゴルカ王国
1.3 統一絶対王政期(1768年 - 1951年)
1.4 立憲王政期(1951年 - 2008年)
2 歴代君主
3 脚注
4 参考文献
5 関連項目
歴史
前史
ゴルカ王国
統一絶対王政期(1768年 - 1951年)詳細は「ネパールの統一」を参照
プリトビ・ナラヤンが死ぬまで、チャウダンディー・セーナ王国やビジャイプル・セーナ王国を併合し、ブータン王国やシッキム王国と国境を接するまでその領土を拡大した[4]。その後、プラタープ・シンハ、ラナ・バハドゥルが二二諸国、二四諸国を次々に併合した[5]。
だが、18世紀末にチベットと貿易の諸問題で衝突したことから、チベットの宗主国である清の介入を招き、1788年から1792年にかけて清・ネパール戦争が勃発した[6]。この戦争で首都カトマンズ近郊まで攻め入られ、その朝貢国となり、冊封体制に組み込まれた。以後、ネパールは5年に一度は朝貢使を北京に派遣せねばならず(五年一貢)[7]、それは清が1912年に滅亡するまで続いた。
清軍との衝突後は再び国内における統一に力を注ぎ、1804年にはニ四諸国で最も強力であったパルパ・セーナ王国を計略で併合した[8]。