ネタ・スヌーク
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ネタ・スヌーク
Neta Snook

生誕 (1896-02-14) 1896年2月14日
アメリカ合衆国イリノイ州マウントカロル
死没1991年3月23日(1991-03-23)(95歳)
アメリカ合衆国カリフォルニア州
著名な実績操縦士アメリア・イアハートの最初の飛行教官
配偶者ビル・サウザン Bill Southern
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アニタ・"ネタ"・スヌーク・サザーン(Anita "Neta" Snook Southern、1896年2月14日 - 1991年3月23日)は、多くの初快挙を成し遂げた先駆的な操縦士

アイオワ州初の女性操縦士、ヴァージニアのグレン・カーチス飛行学校(英語版)に入学を許可された最初の女性生徒、女性パイロット (aviatrix) として航空ビジネスを行ない、商業飛行機を運航した最初の女性である[1]。わけても、スヌークの名前は謎の失踪をとげたアメリア・イアハートの名前と昔から強く結びついてきた。イアハートの最初の飛行教官としてスヌークは自伝『I Taught Amelia to Fly』に彼女の名声の本質を的確に捉えている。友人たちからはスヌーキーと呼ばれた[2]
若年期

1896年2月14日イリノイ州マウントカロル生まれ。幼いころから機械に興味を示し、父親の自動車によってさらに関心を深めたという。4歳のとき、父親の膝に乗ってスタンレー・スチーマーを運転、イリノイの町の丘を走り回っている。成長すると父親から車の内部構造を教わった。フランシス・シマー(現在のシマー・カレッジ)を1912年に卒業[注釈 1]1915年、一家がアイオワ州エイムズに移住、やがてアイオワ州立大学に通い、機械製図内燃機関、農業用機械修理の特別コースを履修した。その頃、最初の飛行する機械が登場し、彼女は興奮して〔エアロプレーン〕(飛行機のことを当時の人々はそう呼んだ)に関する書物を読みあさり、飛行機操縦への願望はますます強まっていく。
飛行

大学2年生のとき、ヴァージニア州ニューポートニューズにあったグレン・カーチス飛行学校(英語版)[4] に志願したが、入学を拒否される。送り返された志願書には「女性は許可できない」とのスタンプが押されていた[5]。翌1917年、アイオワ州のダベンポート飛行学校の広告を見ると地元に帰り、初の女性操縦訓練生のひとりとして入学する。同校の入学者は地元アイオワ州のほか、ミズーリ、テキサス、ウィスコンシン、イリノイ、カリフォルニアなど国内各州に加えてオーストラリアからも受け入れていた。まだ開校したばかりで練習機もなく、学生たちはまず木材と麻布で複葉機を自作する[6]。在校生たちは Curly (巻き毛の子) というあだ名を付けてからかったという。

1917年7月21日に初飛行を体験、その後、同校の校長が墜落死して学校が閉鎖されると、飛行時間わずか100分間では操縦士資格を得ることができないことから転校先を探し、1917年、一旦は入学を認めなかったグレン・カーチス飛行学校に入学、エドワード・スティントン (英語版)ほかの訓練を受け[6] 免許を取得した。スパイに操縦訓練を与えることを恐れた政府は1917年12月、海外から学生を受け入れるカーチスに学校の閉鎖を命じる。そこでカーチスはフロリダ州マイアミへ移転して飛行学校を再開、同行して多くの時間を空で過ごすスヌークだったが、1918年、教官免許を取る寸前に政府が国内の民間飛行を禁止、大戦が終結するまで空を飛べなくなってしまう。実家のあるエイムズに帰った彼女にイギリス陸軍航空隊より、ニューヨーク州エルマイラで納品管理の職につくよう要請が届く[6]。ごく限られた期間ではあったものの、機械いじりの腕を見込まれてヨーロッパ戦線へ向かう航空機の部品とエンジンの検査と試験を行った。

破損したカナック(カーチス JN4 ジェニーのカナダ版)を購入、地元エイムズに船で輸送すると裏庭で2年を掛けて修理した。1920年、そのカナックで牧場の近くを単独飛行し、操縦士免許を取得している。その直後、アメリカ航空クラブ(英語版)と国際航空連盟 (FAI)に入会。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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