ネイピア・アンド・サン
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ネイピア 60 hp T21 1907年

D.ネイピア・アンド・サン(D. Napier & Son Limited)は英国第一次世界大戦以前(いわゆるブラス・エイジ(英語版))からエンジン自動車を製造していた会社であり、また20世紀の初めから中ごろにはもっとも重要な航空用エンジンメーカーのひとつであった。第一次世界大戦後に製作されたライオンは、戦間期のある時期では世界で最も高出力なエンジンであり、また、セイバーの後期型では3,500 hp (2,600 kW)を発生した。
初期の歴史ネイピア・アンド・サンが1859年に製作した蒸気機関ネイピア T23 ロードスター 1909年

デイビッド・ネイピア(英語版)(David Napier)は1785年にアーガイル公爵に仕える鍛冶屋の次男として生まれた。いとこたちは造船技師になったが、デイビッドはスコットランドで技術者としての訓練を受け、1808年にロンドンのセントジャイルズ(英語版)、ロイドコートに会社を設立した。デイビッドは蒸気機関による印刷機を設計し、このうちのいくつかは新聞社、印刷業者であり英国議会議事録の出版を手掛けるハンサード(英語版)にも納入された。会社は1830年にサウスロンドンのランベスに移転した。

1840年から1860年にかけてはネイピアは成功を収め、設備の充実した工場に200人から300人の従業員をかかえていた。この工場では製糖工場向けの遠心分離器や、ウーリッジの王立兵器廠(英語版)のための旋盤ドリル弾薬製造設備、鉄道用クレーンなど多岐にわたる製品を生産していた[1]。1823年に生まれた下の息子ジェイムズが1837年に会社に加わり[1]、1867年には父親の跡を継いで社長に就任した。そして1873年に父親が亡くなると、会社をコインの製造と切手、紙幣を印刷するための精密機械の専門工場にした。ジェイムズは優れた技術者ではあったが、ビジネスマンとしては無能であり、営業努力を下品なことであると考えていた。会社の業績は大きく傾き、1895年には従業員はわずか7人にまでになってしまった。そこでジェイムズは会社を売却しようと試みたが失敗に終わった。[2]

ジェイムズの息子のモンタギュー(英語版)は1870年に生まれ[1]、1895年に父親の技術的才能とともに家業を受け継いだ[1]。モンタギューはアマチュアのレーシングサイクリストであったが、バスロードクラブで“意気軒昂としたオーストラリア人 ”セルウィン・エッジ(英語版)と出会う。セルウィン・エッジはロンドンのダンロップ・ラバー社の支配人であり、H. J. ローソン(英語版)の同僚であり、またアマチュアのモーター三輪車レーサーであった。エッジは彼のパナール(1896年のパリ-マルセイユ-パリ・レース(英語版)で勝利した"Old Number 8”)の舵棒をステアリング・ホイールに変更し、潤滑系を改良するようにモンタギューを説得した[2]。モンタギューはこの内容に満足できず、彼自身の設計による8馬力直列2気筒電気点火(これはパナールのホットチューブ方式より優れていた[3])のエンジンを取り付けることを提案する。エッジはこれに大いに感銘を受け、ダンロップで以前の上司であったハーベイ・デュ・クロ(英語版)と協力して、ロンドンを拠点とするモーター・パワー・カンパニーを設立して[3]、ネイピアのすべての製品を買い取ることを条件に、ネイピアに自ら自動車の製作を始めることを勧める。最初の注文である6台のうち、はじめの3台(8 hp)は2気筒であり、残りは4気筒(16 hp)であった。すべてがコーチビルダーのアーサー・マリナー(英語版)(ノーザンプトン)によるアルミニウム製ボディーにチェーンドライブを備え、1900年3月31日に納入された。エッジは400ポンドを支払い500ポンドで販売した。

1912年にエッジとの論争の果てに、ネイピアはエッジの持ち分と販売会社を買い取った。このときには生産数は年700台近くまで増大していたが、その多くはロンドンのタクシーとして販売するために供給された。この年には6つのモデルが生産されただけだった。ネイピアの最後の自動車は、ライオンエンジンの設計者でもあるA.J.ロウリッジ(英語版)の設計による(その後、彼は1921年にロールス・ロイスに移っている)、40/50hpで、377立方インチ(6,177 cc) (102×127 mm, 4×5インチ) の合金製6気筒、取り外し可能なシリンダーヘッドSOHC、7組のベアリングを備えたクランクシャフト、2組のマグネトーと点火コイル、2重の点火プラグ、そしてNapier-SU キャブレター(英語版)を備えていた。当時子会社であったコーチビルダーのキュナード(英語版)によって車体が取り付けられた[3]。1924年までの間に全部で187台が製作され、そしてネイピアは自動車の生産から撤退した。総生産台数は4,258台であった[3]

自動車レース以外の分野では、ネイピアは1904年に初めてカナディアンロッキーを横断した自動車として名声を博した。これはチャールズ・グリッデン(英語版)夫妻(グリッデンツアー(英語版)の出資者)がボストンからバンクーバーに至る3,536 マイル (5,690 km)を走破したものである[4]
自動車レース

ほかのどの英国ブランドも得ることができなかった[5]自動車レースによる知名度の価値が認識されるようになり、春にエッジは8 hp (6.0 kW)のネイピアで、エドワード・ケナード(英語版)夫人の代理として、王立自動車クラブの1,000マイル(1,600 km)トライアルレースに出場する。ドライバーはエッジで、同乗のケナード夫人とともに、ニューベリーからエディンバラまでを往復する周回コースでクラス優勝を果たした。このレースでは64台が出走したなかで[6]完走したわずか35台のうちの1台であり、またイングランドでは平均時速12 mph (19 km/h)以上、スコットランドでは平均時速10 mph (16 km/h)以上という規定をクリアしたわずか12台のうちの1台であった[7]

1900年の6月になると、8台の"16 hp"が発注され、その1台でエッジは837 マイル (1,350 km)パリ-トゥールーズ-パリのレースに、後にロールス・ロイスを設立するチャールズ・ロールズを同乗メカニックとして参加する。この301.6立方インチ(4,940cc)(101.6×152.4 mm, 4x6 in)サイドバルブは点火コイルと冷却系統にトラブルを起こし、完走することができなかった[8]

1901年にモンタギューは満足できる高速性能をもつ自動車を設計した。これは995.5立方インチ(16,300cc)(165.1×190.5 mm, 6.5×7.5インチ) [9]、サイドバルブ、4気筒、800rpmで最大出力103 hp (77 kW)、ホイールベース115インチ(2.921 m)に4速変速機、チェーンドライブであった。50 hpと呼ばれたが、ロールスのための1台を含めて、わずかに2台ないし3台が完成しただけであった[9]。エッジは1901年のゴードン・ベネット・カップにこのうちの1台で参加するが、途中でテストすることしかできなかった(完成したのが5月25日、レースのたった4日前であった)。モンタギューが同乗メカニックを務めた。50 hpはダンロップ製タイヤには出力過大であり、新たに取り付けられたフランス製のタイヤのために失格になってしまった。というのもこれが車体と同じ国で作られたものではなかったためである[10]。これに続くパリ-ボルドーラリーでは、クラッチのトラブルのためリタイヤした[11]

1902年のゴードン・ベネット・カップ(英語版)では、シャロン・ジラルド・ボイト、モールそしてパナールの3台の自動車がフランスのために競い、エッジがネイピアで、また2台のウーズレーが参加した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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