ヌルハチ
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太祖 天命帝 ヌルハチ(努爾哈赤)
後金
初代ハーン(王)
清太祖天命皇帝朝服像(北京故宮博物院蔵)
王朝後金
在位期間天命元年1月1日 - 天命11年8月11日
1616年2月17日 - 1626年9月30日
都城ヘトゥアラ遼陽瀋陽(盛京)
姓・諱アイシンギョロ・ヌルハチ
蒙文尊称クンドゥレン・ハーン
満洲語.mw-parser-output .font-mong{font-family:"Menk Hawang Tig","Menk Qagan Tig","Menk Garqag Tig","Menk Har_a Tig","Menk Scnin Tig","Oyun Gurban Ulus Tig","Oyun Qagan Tig","Oyun Garqag Tig","Oyun Har_a Tig","Oyun Scnin Tig","Oyun Agula Tig","Mongolian Baiti","Noto Sans Mongolian","Mongolian Universal White","Mongol Usug","Mongolian White","MongolianScript","Code2000","Menksoft Qagan"}.mw-parser-output .font-mong-mnc,.mw-parser-output .font-mong:lang(mnc-Mong),.mw-parser-output .font-mong:lang(dta-Mong),.mw-parser-output .font-mong:lang(sjo-Mong){font-family:"Abkai Xanyan","Abkai Xanyan LA","Abkai Xanyan VT","Abkai Xanyan XX","Abkai Xanyan SC","Abkai Buleku","Daicing White","Mongolian Baiti","Noto Sans Mongolian","Mongolian Universal White"}???????(nurgaci)
諡号武皇帝(horonggo enduringge h?wangdi)[1]
高皇帝(dergi h?wangdi)
承天広運聖徳神功肇紀立極仁孝睿武端毅欽安弘文定業高皇帝
(?????? ???? ?? ?????
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abka i hese be alifi
forgon be mukdembuhe
gurun i ten be fukjin ilibuha
ferguwecuke gungge
gosin hiyoo?ungga
horonggo enduringge h?wangdi)
廟号太祖
生年嘉靖38年1月15日
1559年2月21日
没年天命11年8月11日[2]
1626年9月30日
タクシ
母エメチ(顕祖宣皇后)
后妃トゥンギャ氏
グンダイ
アバハイ
陵墓福陵(?????????
??????, h?turingga munggan)
年号天命(abkai fulingga) : 1616年 - 1626年
ホンタイジ(皇太極) (第8子)

ヌルハチ(努爾哈赤、満洲語:???????, nurgaci[3][4]、???????、nurhaci[5])は、後金の創始者。後金の初代ハーンとされる。
名称

君主としての称号は満洲語でゲンギェン・ハン (????????
???, genggiyen han)、モンゴル語でクンドゥレン・ハーン、廟号は太祖、諡号は高皇帝 (?????
???????, dergi h?wangdi)である。

なお、の文献では童奴児哈赤・?奴児哈赤と呼び、朝鮮の文献では老乙可赤・奴児哈赤と呼び、そして清の文献では弩爾哈斉・弩爾哈奇と記載されている。
生涯
生い立ち

女真族の愛新覚羅氏出身でヘトゥアラ (?????
???, hetu ala)に生まれた。ヌルハチが生まれた頃の女真は、建州女真五部・海西女真四部・野人女真四部に分かれて、互いに激しく抗争していた。これを利用して明は、朝貢の権利を分散させることで、飛びぬけて力の強い部族を出さないようにしていた。具体的な方法としては、建州・海西女真の有力者300名に対して勅書を渡していた。ただし、土木の変(1449年)でのエセン・ハーン侵攻にあたって勅書が無資格者の手に渡るなど混乱した上、期待していた防壁代わりに全くならなかった反省から、ヌルハチが生まれた頃には建州女真に500通、海西女真に1,000通をそれぞれの首長に一括して渡すようになり、若干の権力集中が行われるような政策に転換している。しかしその弊害で、明も放っておけないほど武力抗争が激しくなっていた。ヌルハチの祖先は代々明朝に尽くし、しばしば恩賞を授けられている。

ヌルハチは生まれつき聡明で、力が強く武術を好み、よく働いたので両親に可愛がられた。9歳の時に母のエメチ(ヒタラ氏)が病死した。父のタクシが新たに迎えた継母とは折り合いが悪く、我慢できなかったヌルハチは14歳の時に家出して、母方の祖父のワンカオ (王杲) の元へと身を寄せた。ワンカオは都督の地位にあり、漢字が読め、文武に秀でた人物であった。ワンカオは武芸に秀でた孫を可愛がった[6]

1574年、ワンカオは明と摩擦を重ねた末に挙兵したが、惨敗して捕らわれ、北京に送られて処刑された。この時にヌルハチも捕らわれたが、どうにか逃げ切り、父が住む故郷に戻った。その時にタブンバヤンの娘のハハナ・ジャチン(トゥンギャ氏)と結婚するが、父の後妻と彼女に惑わされた父に冷遇され、再び家を出た。独立世帯での暮らしとなり、人参や薬草を採取して細々と生計を立てた。その暮らしに満足いかないヌルハチは武将になることを志し、遼東総兵の李成梁の部下になる。壮健で乗馬、弓術などが抜群の腕前であったヌルハチは、李成梁に目をかけられるようになった[7]
祖父と父の死、勢力の拡大

1583年李成梁の大軍が建州右衛のグレ城 (gure hoton)[8]を攻めた。城主・アタイ (????, atai) が父・ワンカオ殺害に憤慨して反旗を翻したからである。アタイの妻はヌルハチ祖父・ギオチャンガの孫娘で、ヌルハチの従妹に当たる。ギオチャンガとタクシはグレ城に入りアタイを説得した。しかしその時、ヌルハチと同じスクスフ部 (?????????
?????, suksuhu i aiman) のニカンワイラン (?????
??????, nikan wailan) が明軍を手引きして、アタイを殺害した。ニカンワイランは勢力を伸ばしたいと思い、ギオチャンガとタクシも処刑した。怒ったヌルハチは李成梁に「祖父は孫娘を取り戻そうとしただけで、父は祖父の帰りが遅いから城に入っただけです。それをどうして殺したのですか」と詰め寄った。言葉に窮する李成梁に対し、ヌルハチはさらに「父と祖父は一度たりとも明に背いたことはありません。汚名を着せられて死んだのでは報われません」と言った。李成梁は処刑を悔やんだ[9]。明朝はヌルハチを慰撫するため、20通の勅書と20頭の馬を授け、左衛指揮使に任命した。上述の通り、勅書とは交易許可書のことであり、これを所持する者に明と交易する権利がある。また勅書の数が多ければ多いほど交易で利益を得られる。この任命は李成梁の進言があったと言われる。またこの頃にヌルハチは一族の長となった。

李成梁はヌルハチを厚遇する一方で、ニカンワイランもスクスフ部の首長として重用した。ニカンワイランはこのはからいに気を良くして、ヌルハチにも服従を求めた。しかし父と祖父の仇であるニカンワイランにヌルハチが従うわけがなかった。一方、ヌルハチの従兄弟やその息子などの中にはヌルハチがギオチャンガの後を継いだことをよく思わない者がいて、ニカンワイランと手を結んだ。これに対し、サルフ城のノミナ (??????, nomina)、ギャムフ城のガハシャン(???????, gaha?an, ヌルハチの妹婿)などがヌルハチの味方となった。しかし同盟を結んでも軍勢は100人程度だったと言われている[10]

1583年2月、ヌルハチはトゥルン(?????, turun, 図倫)城を攻めた。しかしニカンワイランはノミナと内通しており、攻撃前にギヤバン城に逃れた。同年8月にギヤバン城 (???????, giyaban)を攻めたが、またもニカンワイランはノミナから密告を受け、オルホン城 (?????, olhon)に逃げた。ノミナの内通に気が付いたヌルハチは、「バルダ城を攻撃するから甲冑や武器を貸して欲しい」とノミナに申し出た。同盟を結んでいる建前からノミナは武器を貸したが、ヌルハチは隙をみてノミナを殺害し、サルフ城を占領した[11]

同月、ジョーギヤ城のリダイとヌルハチの大叔父・ボーシの子・カンギヤが、ヌルハチ属領・フジ・ガシャンを襲撃したため、ニカン・ワイラン追撃は中止し、翌年1月にジョーギャ城を陥落させた。城主・リダイは執えられ、宗族の誼みから誅殺は免じて連行された (→「碩翁科羅巴遜敗哈達兵」)。

同じ頃、ギャムフ城のガハシャンがサムジャン (??????, samjan)に殺された。サムジャンはマルドゥン城 (??????, mardun)に逃げ込んだがヌルハチは追い、サムジャンを殺して仇を討った。同姓同族の激しい骨肉の争いは1583年に終結し、ヌルハチの親族はヌルハチに屈服した。

ドンゴ部 (???????
?????, donggo i aiman)の族長のアハイ (????, ahai)はスクスフ部をまとめたヌルハチを恐れ、攻撃しようとしたが、ヌルハチに気づかれた。ヌルハチはアハイの居城であるチギダ城を攻めたが、城が落とすことができずに引き返した。引き返す時にオンゴロ城を攻めたが、傷を負いヘトゥアラに戻った。傷が治ると再びオンゴロ城を攻撃して落とした。1585年2月、ジャイフィヤン(????????, jaifiyan, 界凡)城を攻撃してジャイフィヤン、サルフ、ドゥンギャ(棟佳)、バルダ城の連合軍を破り、4月にトモホ、ジャンギャ(???????, janggiya, 張佳)、ジャイフィヤン、サルフ、バルダ城の連合軍を破った。また9月にフネヘ(渾河)部を攻略して急激に勢力を伸ばした。

1586年7月、いよいよニカンワイランの居城を攻めた。ニカンワイランは明軍に逃げ込んだので、ヌルハチは明軍に引き渡しを求めた。明軍はもはやニカンワイランには利用価値がないと判断したため、ヌルハチがニカンワイランを捕らえて斬首する[12]のを黙認した。
女真の統一

李成梁は、明が制御できる程度に大きな勢力を一つ作り、その後ろ盾になることで女真を治めようとした。これに選ばれたのが建州女真の中のヌルハチであった。ヌルハチはその後、1587年にジェチェン(?????, jecen, 哲陳)部、1588年にワンギャ(???????, wanggiya, 完顔)部を支配した。最後に残ったホホリもヌルハチに帰順した。こうしてヌルハチは、万暦17年(1589年)に建州五大部を統一することに成功した。


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