この項目では、ボリビアの都市について説明しています。その他の地名については「ラパス (曖昧さ回避)」をご覧ください。
ヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・パス
Nuestra Senora de La Paz
ラパス
市旗市章
位置
ボリビア内のラパス(La Paz)の位置
位置
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座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}南緯16度30分8秒 西経68度9分56秒 / 南緯16.50222度 西経68.16556度 / -16.50222; -68.16556
ヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・パス(西: Nuestra Senora de La Paz)、通称ラパスは、ボリビア多民族国の首都。憲法上の首都はスクレであるが、ラパスは行政・立法府のある事実上の首都である。これは、1825年の独立以来首都であったスクレを基盤にしていた保守党(英語版)政権を、1899年の「連邦革命(英語版)」によってラパスを拠点とした自由党(英語版)が打倒し、議会と政府をスクレからラパスに遷したからである[3]。なお、現在も最高裁判所はスクレに存在する。 かつてのインカ帝国支配地は、スペイン国王カルロス1世(神聖ローマ皇帝としてはカール5世)によって、 ペドロ・デ・ラ・ガスカ
歴史
ガスカは、アロンソ・デ・メンドーサに、 ペルーの征服終結を記念した新しい都市を建設するように命令を出した。1548年10月20日にアロンソ・デ・メンドーサにより、アルト・ペルー南部の鉱山と太平洋岸のペルー副王領の主都リマとの中継地点として、ラパス市が建設された[4]。建設当時の名称はヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・パス市(La Ciudad de Nuestra Senora de La Paz、「我らが平和の母の街」の意)であり、現在のラパス市の西隣にある高地のラハ (Laja) という場所が中心であった。しかし、ラハは谷の上にあり風の影響を強く受け、また、ラパス近郊には金があったこともあって風の影響の弱い現在の谷底に中心が移された[5]。1549年、ホアン・グティエレス・パニアグアは、公共区域、公共広場、官庁街、大聖堂の場所を選定する都市計画を設計するように命じられた。現在はムリーリョ広場として知られているスペイン広場が、メトロポリタン聖堂や、政府系の建物を建てる場所に選定された。1549年に建設が開始されたサンフランシスコ教会は1610年に積雪によって倒壊したが、1744年より再建が始められ、1784年にアンデス・バロック様式の教会堂として落成した[6]。植民地時代を通じてスペインは、ラパスを確固として支配し、スペイン国王がすべての政治的事項に関し、最終的な決定権を有した。
1781年にトゥパク・カタリの指導の下、計6ヶ月の間、アイマラ人がラパスを包囲し、教会や政府の所有物を破壊した。30年後、インディオがラパスを2ヶ月包囲した。この時、この場所でエケコの伝説が生まれた。
1809年にスペイン支配からの独立を求め、ラパス革命(スペイン語版、英語版)が始まった(ボリビア独立戦争の中心地のひとつ)。1809年7月16日、ペドロ・ドミンゴ・ムリーリョは、「ボリビア革命は、誰も消すことのできない独立の火を灯すことである(Bolivian revolution was igniting a lamp that nobody would be able to turn-off)」と述べた。