ヌエストラ・セニョーラ・デル・ピラール聖堂 (スペイン語: Basilica de Nuestra Senora del Pilar de Zaragoza)は、スペイン・アラゴン州サラゴサ県サラゴサにあるカトリック教会の聖堂。「ピラールの聖母」(柱上の聖母)[1]こと聖母マリアに献堂されている。ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世によって「スペイン系の人々の母」と讃えられた[2]。この聖堂は史上初めてマリアに捧げられた教会とみなされている[3]。
地元の言い伝えによれば、この聖堂の歴史は、12使徒の一人でスペインにキリスト教をもたらしたヤコブの前にマリアが姿を現したという逸話に始まる[4][5]。これは聖母の被昇天以前にマリアが出現した唯一の例として知られる[2]。
多くのスペイン王や他国の支配者と聖人たちがこの『柱上のマリア』に奉献した。聖ヨハネ、聖テレサ、イグナチオ・ロヨラ、福者ギヨーム・シャミナードらが顕著な人物である[6]。ピラールはサラゴサ市内にある2つの小バシリカのうちの1つである。近隣にはサルバドール・デ・サラゴサ聖堂がある。ピラールはバロック様式で、現在の建物は1681年から1872年の間に建てられた。 古くからの地元の言い伝えでは、キリストの磔と復活の後、ヤコブはスペインに福音書をもたらしたが、伝道に失敗し彼は意気消沈してしまった[4]。言い伝えでは紀元40年1月2日[3]、 彼がエブロ川の岸辺で深く祈りを捧げていると[7]、神の母が彼の前に出現し、自分自身を模した小さな木像と碧玉の柱を与え、彼に教会を建てるよう命じた[4]。: 「この地は私の家となる、この像と円柱はお前の建てる祭壇と建物の名前とするように。」 出現から1年後、ヤコブはマリアを讃える小さな礼拝堂を建てる準備を整えた。最初の教会は処女マリアへ捧げられた。エルサレムへ戻った後、彼は44年頃にアグリッパ1世によって処刑され、12使徒で初めての信仰の殉教者となった。彼の弟子数名が彼の遺体を引き取り、スペインの最終的な埋葬地へ連れ帰った[4]。この最初の礼拝堂は、他のキリスト教建築物の多くと同様にすぐに壊された。しかしマリア像と円柱はサラゴサ市民が守って無傷のままであった[6]。 その後現在の聖堂の位置に多くの教会が建てられた。聖ヤコブの建てたちっぽけな礼拝堂はのちのコンスタンティヌス帝時代にバシリカに似た建築となった。その直後にロマネスク様式に建て替えられ、その後にゴシック様式、ムデハル様式に改築された[8]。今も深く崇拝されるサラゴサの礼拝堂の多くは1118年、アルフォンソ1世によってキリスト教徒のレコンキスタが始まった時に作られたと推測される[9]。教会は、ペドロ・デ・リブラナが司教職を勤めた期間にロマネスク様式で建てられた[8]。彼は、サラゴサで聖母への感謝状の最も古い記載を残した人物として名を残した[7]。このロマネスク様式の教会で今も残るのは、南壁のティンパヌム(アーチ下の半円壁)である[8]。 1434年の火事でロマネスク様式の教会は損傷し、ムデハル=ゴシック様式で再建が始まった[8]。ゴシック様式の教会は15世紀に建てられた。今では聖歌隊席とダミアン・フォルメント 現在の広々としたバロック様式の教会は、1681年にスペイン王カルロス2世により建設が始まり[7]、1686年に完成した[6]。建設当初はフェリペ・サンチェスが監督し[8]、のちにドン・ファン・デ・アウストリアのもとで小フランシスコ・エレーラにより修正された[11]。1725年、サラゴサのカビルド(協議会)が聖なる礼拝堂の外観変更を決め、建築家ベントゥラ・ロドリゲス
歴史
ピラールの出現
最初の礼拝堂
発展
ロマネスク様式の教会
ゴシック様式
現在の教会
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