ニール・ダイアモンド
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Neil Diamond
ニール・ダイアモンド

基本情報
出生名ニール・レスリー・ダイアモンド
生誕 (1941-01-24) 1941年1月24日(83歳)
出身地 アメリカ合衆国 ニューヨーク ブルックリン
学歴ニューヨーク大学
ジャンルポピュラー音楽
職業歌手
作曲家
アレンジャー
プロデューサー
活動期間1966年~現在
レーベルBang Records
MCA Records
Columbia Records
公式サイト ⇒http://www.neildiamond.com/

ニール・ダイアモンド(Neil Diamond, 1941年1月24日 - )は、アメリカ合衆国ポピュラー音楽歌手作曲家アレンジャープロデューサー。本名は、ニール・レスリー・ダイアモンド(Neil Leslie Diamond)。ニューヨーク市ブルックリン出身。
概要

1960年代から1980年代にかけて数々のヒット曲を生み、成功を収めたポップアーティストの一人とされる。ビルボードチャートの歴史上で、最も成功したアダルト・コンテンポラリーのアーティストとして、エルトン・ジョンバーブラ・ストライサンドに次いで3位にランクされている。

2005年5月現在、全世界で1億2千万枚以上の売り上げを記録している。本国アメリカ合衆国では4千8百万枚のセールスを記録する。1980年代以降、売り上げは幾分減少したが、ワールド・ツアーを数回行なうなど、活動は盛んである。彼の作り出した楽曲の多くは、異なるジャンルの多数のアーティストによってレコーディングされている。

1984年に、ソングライターの殿堂入りを果たした。

2000年に、サミーカーンLifetime Achievement賞を受賞。

2011年に、ロックの殿堂入りを果たした。

未だ来日公演のないアーティストの一人である。
来歴
少年時代

ニューヨークで、ユダヤ人移民の両親の家庭に生まれ、ブルックリンで育った[1]ニューヨークのエラスムス・ホール高校に入学し、そこで同級生のバーブラ・ストライサンドと共に合唱部に所属する。

転校後、卒業したアブラハム・リンカーン高校では、フェンシングチームのメンバーだった。16歳の誕生日にギターを贈られ、その演奏を学ぶ。ピート・シーガーを当時の手本としていた。その後、ニューヨーク大学に入学、フェンシング奨学金を得て、医大予科生学生となる。生物学に興味があったが、有機化学に対し嫌悪感があったことと、音楽の追求のため、卒業まで1年を残し中退した。
初期

1960年、高校からの友人、ジャック・パッカーと「ニールとジャック(Neil and Jack)」を結成。エヴァリー・ブラザースのようなデュオだった。デュエルレコード(Duel Records label)と最初の契約を結んだ。シングル"What Will I Do,"をレコーディングするも成功せず。1962年にソロ・パフォーマーとしてコロムビア・レコードと契約する。シングル"At Night"をリリース。ラジオ局を回ってのプロモーションにもかかわらず、チャートには上らず、コロムビアを解雇される。まもなくバードランドクラブでのピアノでの作曲活動に戻ることになる。

1972年10月1日のニューヨーク・タイムズのインタビューによれば、この頃、名前をノア・カミンスキー(Noah Kaminsky)に変えようと考えていたという。ジョエル・ホイットバーン著の「Top Pop Singles」では、これが本名であると誤記されている。1985年のテレビでのインタビューでは、ホストのバーバラ・ウォルターズに、エリス・チェリー(Eice Cherry)への改名も考えていたと話している。

結局、キャリア初期はブリル・ビルディングスタジオの作曲家として過ごした。"I'm a Believer"、"A Little Bit Me, a Little Bit You,"を書きあげ、モンキーズに提供した。ダイアモンドは"Pre-Fab Four"のためにこれらを書いたと言われるが、実際は自分自身で歌うために書いたものであり、録音もされていた。だが、カバーであるモンキーズのバージョンは、そのリリース以前に発売された。だが、この楽曲の大成功により、ダイアモンドはソングライターとしての名声を得始める。"I'm a Believer"は、1966年のソング・オブ・ザ・イヤーに選ばれている。
1960年代の成功

1966年、バング・レコード(Bang Records)と契約。"Solitary Man"は彼自身での名義での初のヒットとなった。その後、"Kentucky Woman"、"Cherry, Cherry"などのヒット曲を生む。"Cherry, Cherry"のオルタネィティブ・ヴァージョンは、ボックスセット"In My Lifitime"に収録されている。バング・レコード時代のプロデュースは、ジェフ・バリーとエリー・グリニッジという著名なベテラン制作者により行われた。両者とも多くの曲でバックコーラスを務めている。

だがダイアモンドは、バング・レコードに拘束されているように感じ始めた。より野心的で内省的な音楽を追求したいと考え、契約の不備を元に、別のレーベルに移籍しようとする。結果は一連の訴訟になり、音楽活動も若干停滞する。後には裁判で勝利をおさめ、1977年にはバング・レコード時代のマスター音源の所有権を確保した。
1970年代

1960年代後期に、MCAレコード(現在のユニバーサル・レコード)と契約した後、1970年カリフォルニア州ロサンゼルスへ引越しをした。クラックリン・ロージー, スウィート・キャロライン[注 1]などがヒットし、ソング・サング・ブルーは72年に全米1位になった[注 2]ロサンゼルスのグリーク・シアターで10回のコンサートを行い、チケットを完売させた。8月24日木曜日のパフォーマンスは、2枚組のライヴ・アルバム"Hot August Night"としてリリースされている。以前のヒット曲を生き返らせたとして、彼のパフォーマーとしての魅力を示すものである。このアルバムは古典的名作となっており、オーストラリアの音楽チャートでは29週間連続1位を記録した。また、ヘレン・レディとのデュエット"Song Sung Blue"を収録した、1977年グリーク・シアターでのライブ・アルバム"Love At The Greek"は、2006年にオーストラリアで行われた好きなアルバムの世論調査で16位になった。

1973年、ダイアモンドはコロムビア・レコードへ再び移籍する。そこで彼は、映画『かもめのジョナサン』のサウンドトラックを製作。これは、映画自体より多くの売り上げを記録した。

1974年、アルバム"Serenade"をリリース。"Longfellow Serenade", "I've Been This Way Before"を収録。

1976年ザ・バンドロビー・ロバートソンがプロデュースした"Beautiful Noise"をリリース。同年の感謝祭でのザ・バンドの最後のコンサート「ラスト・ワルツ」にゲスト出演。先のアルバムでロバートソンと共作した"Dry Your Eyes"を歌った。またラストでのボブ・ディランの"I Shall Be Released"に、他のミュージシャンと共に加わってもいる。しかし、このダイアモンド参加はロバートソンのゴリ押しとも言え、ロバートソンと他のメンバーとの不仲を決定的なものとした。(事実、1983年のザ・バンド再結成にはロバートソンのみが不参加となった)。

1977年、"You Don't Bring Me Flowers"を含むアルバム、"I'm Glad You're Here With Me Tonight"をリリース。"You Don't Bring Me Flowers"はバーブラ・ストライサンドが、アルバム"Songbird"でカバーしている。ルイビルのラジオ局のディレクター、ゲイリー・ガスリーは2人の曲をミックスし、仮想デュエット版として放送した。これが人気となり、実際に2人はデュエット版を発売。これは1978年ナンバーワンヒットとなり、3回目の全米No.1に輝いた。
1980年代以降

映画版の「You Don't Bring Me Flowers」がダイアモンドとストライサンド主演で企画されたが、1980年にダイアモンドがアル・ジョルソンのクラシック作品『ジャズ・シンガーリメイク版の主役に選ばれたことで没となる。


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