ニール・セダカ
Neil Sedaka
1965年
基本情報
生誕 (1939-03-13) 1939年3月13日(85歳)
出身地 アメリカ合衆国、ニューヨーク州ブルックリン
ジャンルポップス、ロカビリー、ドゥーワップ
職業歌手、作曲家、シンガーソングライター
担当楽器ボーカル、ピアノ
活動期間1957年 -
レーベルRCAビクター、MGMレコード、ポリドール・レコード、ロケット・レコード、エレクトラ・レコード、Neil Sedaka Music、Razor & Tie Records
共同作業者トーケンズ
公式サイト ⇒neilsedaka.com
ニール・セダカ(英: Neil Sedaka、1939年3月13日 - )は、アメリカ合衆国の歌手、作曲家、シンガーソングライター。ニューヨーク州ブルックリン出身[1]。娘は歌手のデラ・セダカ。1960年代前半に歌手兼作曲家として、1970年代にシンガーソングライターとしてそれぞれ黄金期を迎えた。日本やイギリスでも独自のヒット作を生むほどの人気を得た。 ユダヤ系移民。1900年代初めにトルコのイズミルから祖父母がニューヨークに移住した[2]。祖母はプロのクラシック・ピアニスト。父はタクシー運転手、母はポーランド・ロシア系ユダヤ移民。 幼少期からピアノを習い、同じアパートに住んでいた作詞家ハワード・グリーンフィールドと共同で曲を作り始めた。高校時代には友人たちとポップ・グループ、トーケンズを結成(ニール脱退後「ライオンは寝ている」がヒット)、その後はジュリアード音楽院で学ぶ。 在学中にブリル・ビルディングの作詞・作曲チームとして、グリーンフィールドとともに商業ポップスの作曲を始めた。 1958年、コニー・フランシス「間抜けなキューピッド」が成功を収め注目される。同年にRCAビクターとソロ歌手として契約を結び「恋の日記」、「おお!キャロル」、「カレンダー・ガール」、「すてきな16才」、「悲しき慕情」などを次々とチャート・インさせ、ポール・アンカらと並ぶ全米規模の人気歌手となった。「おお!キャロル」のB面として録音された「恋の片道切符」は、日本のみA面でシングル発売され大ヒットした。1960年4月には来日してミニライブを開催、未発表曲「二人の並木径(Walk with Me)」を佐川ミツオにデビュー曲として贈呈した。また、1966年には、シングル「ワールド・スルー・ア・ティアー?涙の小径?(The World Through A Tear)」がアメリカで発売され、このシングルをニール本人が日本語で歌ったバージョンが日本のみで発売される。[3] 1966年にレコード会社を移籍後、ブリティッシュ・インヴェイジョンの影響を受けて長い低迷期を迎え、他のスターの前座や地方公演に参加する。 1971年、カーシュナー・レコードと契約してアルバム『エマージェンス』を発表。収録曲の「スーパーバード」が翌年日本でヒットする。同じく1972年にイギリスでRCAマキシ・ミリオン・シリーズから発売された3曲入りシングル「おお!キャロル/悲しき慕情/小さい悪魔」が19位を記録する[4]。カーシュナー・レコードはのちにRCAから販売され結果的にはRCAと再契約したような形となった。 この時期、作詞家のフィル・コディ 1974年10月、エルトン・ジョンが設立したロケット・レコードと契約して発表した「雨に微笑を」が翌1975年に全米1位を記録して米国内で復活、続いてエルトンがコーラスに参加した「バッド・ブラッド」も1位、「悲しき慕情」のバラード・バージョンが8位を記録する。1976年、前年にキャプテン&テニールがカバーして大ヒットした「愛ある限り」がグラミー賞を受賞する。 1978年、娘のデラ・セダカが歌手デビュー。1980年、デラとのデュエット「面影は永遠に(Should've Never Let You Go)」(コディ作詞)が全米19位を記録する。(デラは1982年に日本で映画『1000年女王』主題歌「星空のエンジェル・クィーン」がヒット。作曲は喜多郎、プロデュースはデイヴィッド・フォスター) 1985年、 TVアニメ『機動戦士Ζガンダム』に日本語カバー曲(Better Days Are Comingを使用)と提供曲「水の星へ愛をこめて」が使用される。
人物
略歴