ニール・アームストロング
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この項目では、宇宙飛行士について説明しています。その他の用法については「ニール・アームストロング (曖昧さ回避)」をご覧ください。

ニール・アームストロング
Neil Armstrong


USAF / NASA所属宇宙飛行士
国籍 アメリカ合衆国
生誕 (1930-08-05) 1930年8月5日
アメリカ合衆国オハイオ州ワパコネタ
死没 (2012-08-25) 2012年8月25日(82歳没)
アメリカ合衆国オハイオ州シンシナティ
過去の職業海軍飛行士テストパイロット
宇宙滞在期間8日14時間12分31秒
選抜試験1957年MISS計画
1960年ダイナソア計画
1962年NASA第二次飛行士選抜試験
ミッションジェミニ8号アポロ11号
記章 月面着陸

ニール・オールデン・アームストロング(Neil Alden Armstrong, 1930年8月5日 - 2012年8月25日)は、アメリカ合衆国海軍飛行士テスト・パイロット宇宙飛行士大学教授。人類で初めて月面に降り立った人物である。大統領自由勲章(1969年)、議会宇宙名誉勲章(1978年)、議会名誉黄金勲章(2009年)受章。
人物概要

最初の宇宙飛行は1966年ジェミニ8号で、ニールは機長を務め、デヴィッド・スコット操縦士とともにアメリカ初の有人宇宙船でのドッキングを行なった。2回目の宇宙飛行は1969年7月16日に打ち上げられたアポロ11号で、この時も機長を務め、バズ・オルドリン飛行士とともに2時間30分にわたって月面を探索した。

宇宙飛行士になる前は海軍に所属し、朝鮮戦争では実戦に参加した。その後は国立航空諮問委員会(National Advisory Committee for Aeronautics, NACA)の超高速飛行本部(のちの ドライデン飛行研究センター)に所属し、様々な実験機で900回以上ものテスト飛行をした。F-100スーパー・セイバーAおよびC、F-101ヴゥードゥー、ロッキードF-104Aスター・ファイターの開発には、テスト・パイロットとして関わった。またベルX-1BベルX-5ノース・アメリカンX-15F-105サンダーチーフ、F-106デルタ・ダート、B-47爆撃機、KC-135空中給油機、ペアセヴ(Paraglider Research Vehicle、実験用パラグライダー)などの操縦も経験した。パデュー大学南カリフォルニア大学の卒業生[1]
幼少期

ニール・アームストロングはオハイオ州ワパコネタ(Wapakoneta)で、父スティーヴン・ケイニグ・アームストロングと母ヴィオーラ・ルイーズ・エンゲルの長男として生まれた[2][3]。他に弟のディーンと妹のジューンがいる。スコットランドアイルランド人およびドイツ人を先祖に持つ父スティーヴンはオハイオ州の役所に勤務し、転勤を15回もくり返し20もの町に移り住んだ。

父親の最後の勤務地はワパコネタで、この年(1944年)ニールはボーイスカウトの最高位であるイーグルスカウトの位を取得した。成人後には特別イーグルスカウトおよびシルバーバッファローにも選ばれ、さらにアメリカの若者にとって最も名誉ある顕彰の一つであるボーイスカウト・オブ・アメリカにも選ばれている[4]。ワパコネタでは、ブルーム高校に通っていた。

1947年、ニールはパデュー大学に通い、航空工学を学び始めた。同大学では、ファイ・デルタ・シータ(Phi Delta Theta, ΦΔΘ[5])とカッパ・カッパ・プサイ(Kappa Kappa Psi, ΚΚΨ[6])という親睦団体に所属していた。家族の中で大学まで行ったのはニールともう一人だけで、彼はマサチューセッツ工科大学(MIT)にも入学が認められていたが、MITに通っていた知り合いのエンジニアにケンブリッジでなくとも良い教育は受けられる、と説得されたためパデュー大学に通うことにした。

同校ではホロウェイ・プラン (Holloway Plan) という奨学金制度を受けていた。これは志願者を2年間大学に通わせた後、3年間海軍に勤務させ、また2年間復学させるという制度である。ニールの大学での成績は平均的なものだったが、無事に航空工学の学士号を取得することができた。後のことだが、1970年には南カリフォルニア大学から宇宙工学修士号を習得したほか[7]、多くの大学から名誉博士号を与えられている。
海軍での勤務

1949年1月26日、ニールは海軍に入り、フロリダ州ペンサコーラ海軍航空基地で飛行訓練を受けるよう任命された。以後およそ18か月間、同基地と空母カボットライトでの訓練で飛行機操縦と航空母艦への離着艦の技術を教育され、1950年8月16日、海軍飛行士の正式な認定を受けた[8]

最初の勤務地はカリフォルニア州サン・ディエゴ海軍航空基地(のちのノース・アイランド海軍航空基地)の第7艦隊航空部隊で、2か月後に全機がジェット機で編成される第51戦闘飛行隊に配属された。1951年1月5日、F9F-2Bパンサーで初めてジェット機の操縦を経験し、6か月後には空母への着艦も行なった。この週に、ニールは士官候補生(Midshipman)から少尉(Ensign)に昇進した。月末には、彼ら第51戦闘飛行隊を乗せた空母エセックスは、朝鮮戦争における対地攻撃を行なうために、朝鮮半島へと向けて出航した[9]

朝鮮戦争での初の実戦経験は1951年8月29日のことで、任務は金策市を写真撮影する偵察機の護衛だった。だがその5日後に、彼の搭乗機は地上からの砲撃を受けた。その日の偵察飛行の主要目的地は、貨物場と、元山市西部のマジョンニ村(Majon-ni)の南にある狭い谷にかかる橋だった。ニールはF9Fを操り、低高度を時速およそ560kmで飛行しながら対地掃射をしていたが、その時地上からの対空砲が命中した。機体は機首を前のめらせ、電線に右の主翼を接触させた。


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