ニードルポイントレース
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化粧する女化粧着にはレティセラとプント・イン・アリアの縁飾りが、テーブルクロスには四角いレティセラと刺繍したトワルが組み合わされている
プント・イン・アリアはニードルレースであり、レティセラとトワルは布地に刺繍を施したものである (1600年頃作画)[1]

ニードルレースとは、を用いてだけで作られたレースのことをさす。ニードルポイントレースともいうが、広義には布地に刺繍して作成されるレース(刺繍レース)も「ニードルポイントレース」であるため、糸だけで作るものを区別する為に、これをニードルレースと呼ぶ[2][3]
現存するレースの種類若い女性の肖像。フレーズとショールカラーは金糸のボビンレース。袖のスリットにはレティセラのバンドをつけている。16世紀から17世紀前半までのレースは幾何学的模様であった (1619年頃作画)

15世紀から16世紀頃に隆盛したドロンワーク (drawn threadwork) 、カットワーク (cutwork) 、レティセラ (reticella) は、ニードルポイント (布地に刺繍したもの) であるため、ニードル・ポイント・レースとよばれるが、厳密にはニードルレースには含めない。以下、ニードルレースの主な種類を挙げる。
プント・イン・アリア (punto in aria) (1620年頃から1650年頃)
イタリア語で「空中ステッチ」の意味。生地なしで糸だけで作られた、最初の正規のニードルレースである。幾何学模様を特徴とする。
ポワン・プラ・ド・ヴニーズ (point plate de Venise) (1630年頃から1650年頃)
完全に幾何学模様ではないニードルレース。グロ・ポワン・ド・ヴニーズとは異なり、模様に浮き上がった部分がない。
グロ・ポワン・ド・ヴニーズ (gros point de Venise) (1650年頃から1670年頃)
彫刻的な美しい外観をもち、男子服に良く似合う重厚なニードルレース。50本の糸の束をモチーフの輪郭につけ、モチーフはピコットステッチのブリッドで自由につながれた。
ポワン・ア・ラ・ローズ (point a la rose)
グロ・ポワン・ド・ヴニーズに似ているがブロッドが非常に細かい。モチーフは非常に小さいポワン・プラ・ド・ヴニーズの変形。19世紀になってからこの名称が使われるようになり、17世紀レースのテキストで用いられる。
ポワン・ド・フランス (point de Francais) (1670年頃から1690年頃)
単純で幻想的なモチーフであり、六角形の網目はボタンホールとピコットが特徴である。
ポワン・ド・ネージュ (point de neige) (1680年頃以降)
厳密なブロッドがなく、ピコットの集積と極小のモチーフを特徴とする。ボビンレースのポワン・ド・ネージュとは異なる。ヴェネツィアで考案された最後のニードルレースである。
アランソン・レース (Alencon lace ,point d'Alencon) (1700年頃以降)
地模様が単純な網目であり、モチーフはボビンレースに酷似している。
アルジャンタン・レース (Argentan lace ,point d'Argentan) (1730年頃以降)
アランソン・レースのデザインより目の詰んだものが多いが、1750年以降区別できなくなる。
ポワン・ド・スダン (point d'Sedan) (1740年頃以降)
1740年頃まではポワン・ド・フランスと同じ地模様であったが、アランソン・レースと同じ特徴をみせるようになる。非常に豊富な大きなモチーフを特徴とする。インドやペルシャの影響が見られる。
ポワン・ド・ガーズ (point de gaze)
技法はアランソン・レースに似ている。しばしばボビンレースに結合して使われ、大きなデザインの大きな作品となった。
起源と歴史キャサリン・パー (1512-1548)

15世紀イタリアのドロンワーク、16世紀イタリアのカットワーク (レティセラ) が起源とされている[4][5][6]

ドロンワークとは生地の糸を抜いて、刺繍の技法で碁盤縞の生地を作り、模様を描く方法である。最初から生地に間を開け四角の目を作り、刺繍で模様を描くプラトーレースも作られていた。主に棚飾りなどインテリア用のレースであった。

カットワークとは1540年代にはヴェネツィアの刺繍師たちにより発明されたレースであり、生地をはさみで切り抜き、細かい刺繍を施す方法で作成された。高貴な人々の身を飾った最初のレースであり、ヘンリー8世の6番目の妃キャサリン・パーの1545年の肖像画に描かれている[7]

レティセラはカットワークの一種であり、1560年頃から1620年頃にかけて、ヨーロッパ中の高貴な人々の身を飾り肖像画に描かれたレースである。当時大変高価なものであったため、ボビンレースでも同時代に似たものが作成されている[8][9]

プント・イン・アリアは1620年頃から1650年頃にかけて作られ、最高クラスの技術と美しさをもっていたが、このレースがトップ・ファッションとして王族達の身を飾ることはなかった[10]若いイタリアの貴族。グロ・ポワン・ド・ヴニーズのラバ。ジャケットは黒いボビンレースで縁取られている (1670年頃作画)

1650年頃から1670年頃までは、グロ・ポワン・ド・ヴニーズが流行を支配した。バロック様式から、形態の肉付け、遠近法、リズミカルな力強さを、東洋から植物装飾のテーマの繰り返しを取り入れ、それまでのレースの静的な印象とは程遠い、動きのある効果を生み出した。

これらのレースの輸入額は莫大なものであり、ヴェネツィアでしか手に入らなかった。当時のフランスのレース産業は大規模なものであったが、はっきりとしたスタイルを持たず、通商上もフランドルやイタリアに遅れをとっていた[11]。ルイ14世の通商大蔵大臣であるジャン=バティスト・コルベールが何度禁止令を発令しようと、それを無視してレースを身につけるものがあとを絶たなかった。コルベールは組織力や改革力を発揮し、一定数の都市に「王立レース制作所」を設置し、コルベールが選んだ行政官に補助金を交付するよう、1665年8月5日に王の署名のある宣言を交付した。「王立レース制作所」はグロ・ポワン・ド・ヴニーズの模造品を作る為に努力し成果をあげた。1660年から1670年頃の、フランスのニードルレースは、ヴェネツィアのレースを見分けることは難しい。8歳のパルマ公女イザベラ(部分)。大きな縁飾りから切り取られたポワン・ド・フランスの胸当てとタブリエ。この時代レースは何度も作り変えて使われた (1749年頃作画)若い大司教 (部分) 。祭服の裾とカフスはポワン・ド・ネージュで縁取られている。この絵は1720年に描かれておりすばらしいレースが長期間保存されたことを示す証拠である

1670年頃から1690年頃は、ポワン・ド・フランスとして認められる作品を作られるようになり、フランス王立製作所が市場支配を確立した。装飾要素を強調する技法を守りながら、ヴェネツィアのグロ・ポワン・ド・ヴニーズのレリーフを取り除き、周辺にピコット装飾し、六角形の大きな網目模様で整然としたザインで構成された。

1680年頃登場した、ポワン・ド・ネージュはヴェネツィアで創作された最後のレースである。ピコットのある輪郭に、非常に小さいモチーフをつけて特色を出した。レースのもつ雪のような印象から名前がついた。

1700年頃より、流行が変わりよりしなやかな、軽いレースが好まれ、アランソン・レースが登場した。単純な網目と変わり編み目、糸の束をボタンホールステッチでかがったブロッドを特徴とする。アランソンの隣のアルジャンタンでも1730年から1750年頃には目の詰まったアルジャンタン・レースが作られたが、1750年以降に両者は区別できなくなった。

ポワン・ド・スダンはアランソン・レースと似た技法であるが、大きな模様の豊富なモチーフを特徴とする様式が特別であった。モチーフの輪郭は全部はかがらず、最も効果のあるところにのみブロッドを配置した。

1770年頃より、社会的・思想的変化による服飾流行の変化がレース需要を減少させ、レース産業に大きな影響を及ぼした。レースが下着に使われ、人目に触れることが少なくなり、装飾や作り方にあまり手をかけず、退屈な連続模様の幅の狭いものとなった。

フランス革命の大動乱ののち、革命政府やナポレオン1世がレース産業を奨励したが、上得意を失ったこと、安価なボビンレースの流行により、本格的なレースが作られなくなった。

1812年頃、機械によるチュールレースが登場し、機械チュールにニードルレースをアップリケする方法となった。

ポワン・ド・ガーズはアランソン・レースの模造品であり、ブリュッセル特有のものであったが、ノルマンディーでも作られるようになった。全てニードルレースで作る非常に高価なレースであった。舞踏会や結婚式の扇面として使われた。

1870年第二帝政が崩壊し、フランスでは経済的、社会的に苦難の時代となった。近隣全ての国々で、レース産業のような贅沢産業は深刻な打撃をこうむった。

19世紀末以降はレース産業は機械レースと同義語となり、肉眼的には見分けのつかないものとなった。機械レースはどのようなレースも巧みに模造することが可能であった。手工芸のレースは芸術品であり、古いレースは美術館の収蔵品となり、個人の蒐集品となるものもあった。

20世紀以降レースは殆ど機械レースであり、例外として植民地において手工芸のレースが生産された。

第二次世界大戦によりヨーロッパの手工芸のレースは殆ど絶え、レースを作っている数少ない人は、自分用や楽しみのために作っているのみである。
服飾流行と歴史イギュイール元帥夫人。フレーズとコルサージュはプント・イン・アリアで飾られている。


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