ニュー・ワールズ
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『ニュー・ワールズ』(New Worlds)はイギリスSF雑誌。1936年に『ノヴァ・テラ(Novae Terrae)』という名前の同人誌として創刊され、その後ジョン・カーネルが編集長となって1939年に『ニュー・ワールズ』に改名。1946年に商業誌となり、この分野の代表的雑誌となった。

1964年にロバーツ&ビンテル社に買収され、マイケル・ムアコックが編集長となる。1966年に経営難となって、ロバーツ&ビンテル社は同誌を手放すが、ブライアン・オールディスにより英国芸術協議会の援助を得ることができ、ムアコックは独自に刊行を続けた。ムアコックは実験的、前衛的な素材を多く送り出し、『ニュー・ワールズ』はニュー・ウェーブ運動の中心となった。ニュー・ウェーブは論争を巻き起こし、この時期の執筆者では、オールディス、J・G・バラードトマス・M・ディッシュなどが活躍した。1970年になると負債のために定期刊行は終了し、その後はムアコックの名前で不定期に出版され、2012年に最新刊が発行されている。
歴史
初期

1936年にヌニートンに住むSFファンのモーリス・K.ハンソンが、同人誌『ノヴァ・テラ』を作った。ハンソンはその後ロンドンに移り、1937年に設立されたSF協会の機関誌となった[1]

A.C.クラーク、ジョン・カーネル、ウィリアム・F.テンプルも『ノヴァ・テラ』制作に関わる。1939年に編集長がハンソンからカーネルに変わり、カーネルは題名を『ニュー・ワールズ』に改名した。またカーネルは商業誌への転換を図り、出版社「The Worlds Says」に持ちかける[1]。1946年には出版社「Pendulum」に商業化を提案して賛同を得た。同年の商業化第1号は15,000冊を刷って、3000部の販売。10月に出た第2号では表紙デザインをアメリカのSF誌風にするなどして、売り上げは上向いた[2]

しかしPendulum社は、1947年にもう1号を発行した後で破産する。1948年にロンドンのSFファングループでフランク・クーパーを中心にして、『ニュー・ワールズ』を発行する出版社を起こすことが提案された[1][3]
ノヴァ社

1948年5月のロンドンSF大会で、カーネルがノヴァ出版社の設立計画を発表し、1949年にジョン・ウィンダムらを編集者として設立され、6月に第1冊(通巻4号)が発行され、以後は季刊で発行がされた[3]。また1950年には、ノヴァ社は新雑誌『サイエンス・ファンタジー』を創刊[1]。1951年末からは隔月刊となり、発行部数も18,000部に達した。

価格低減を目指して、1953年に印刷をカールトン印刷社に変えたところトラブルとなり、一時出版が停止するが、1954年4月からは印刷会社をマクラーレン社として、月刊での発行を開始した。1958年にはノヴァ社は第三の雑誌『サイエンス・フィクション・アドベンチャー』も創刊する。しかし1960年代になると売れ行きは低迷し始め、1963年5月で『サイエンス・フィクション・アドベンチャー』は廃刊、同年9月に『ニュー・ワールズ』『サイエンス・ファンタジー』も廃刊となり、カーネルはデニス&ドブソン社でSFアンソロジー・シリーズの編集を行うことになった[1][4][5]
ロバーツ&ヴィンター社

『ニュー・ワールズ』と『サイエンス・ファンタジー』はロンドンのロバーツ&ヴィンター社のデヴィッド・ウォーバートンに引き継がれることになった。ロバーツ&ヴィンター社は当時、W・H・スミス社ジョン・メンジーズ社の二大新聞雑誌販売チェーンに喰い込むための、新しい出版物に関心を持っていた。[1][5]

この頃までカーネルに小説を売り込んでいたマイケル・ムアコックは、雑誌の廃刊を嘆く手紙を送り、カーネルはムアコックをロバーツ&ヴィンター社に推薦し、ムアコックが『ニュー・ワールズ』の編集長となり、ブライアン・オールディの友人で美術商のキリル・ボンフィグリオリが『サイエンス・ファンタジー』の編集長となった[5]。ムアコック編集の『ニュー・ワールズ』は当初隔月刊だったが、1965年には月刊に戻った[1]

1966年7月に、ロバーツ&ヴィンター社の販売会社であるソープ&ポーター社が破産したため、財政的理由でロバーツ&ヴィンター社は『サイエンス・ファンタジー』の廃刊を計画する[1]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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