ニューロ・ダイバーシティ
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ニューロ・ダイバーシティ(英語: neurodiversity)は、教育障害に対するアプローチであり、様々な神経疾患は普通のヒトゲノムの差異の結果として現れるのだ、ということを提唱する[1]。この用語は、1990年代後半に、神経学的多様性は本質的に病的なものであるとする通説に対抗するものとして現れた。ニューロ・ダイバーシティは、神経学的差異は、ジェンダー民族性性的指向や障害と同様に、社会的カテゴリーとして認識され尊重されるべきであると主張する。神経多様性あるいは脳の多様性とも呼ばれる。

ニューロ・ダイバーシティ運動は国際的な市民権運動として存在しており、その最も影響力のある運動として自閉者の権利運動を含む。この運動は、障害者の権利のスローガンである「私たち抜きに私たちのことを決めるな(英語版)」のもとに、メンバーのセルフ・アドボカシーを推進している。ニューロ・ダイバーシティの支援者は、神経学的に非定型な人々が、無根拠に受け入れられている「正常」の概念を採用したり、臨床的な理想像に適応したりすることを強要・強制されることなく[2]、彼らの人生を生きることができるようにするための支援体制(包摂に焦点を当てたサービス、合理的配慮、コミュニケーションや補助のテクノロジー、職業訓練、自立支援)[3]を支持する。この社会に蔓延している様々の社会規範やスティグマに対抗して、自閉双極性、その他の神経特性を、病理や障害ではなく、ヒトの自然な変異として位置付ける。また、(運動の支持者たちは)神経学的差異をヒトの多様性、自己表現、存在の本来の在り方であると信ずるゆえに、それらは治療される必要がある(あるいは治療することができる)という考え方を退ける。
用語

2011年の Pier Jaarsma によれば、ニューロ・ダイバーシティは「論争の的となる考え方」であり、それは「非定型神経発達を普通のヒトの差異と見做す」というものである。[4]

Nick Walker(2012)は、ニューロ・ダイバーシティの概念はどんな神経学的状態にある人々も包含するものであるから、「神経学的に多様な(neurodiverse)人」などというのはありえないし、全ての人々はニューロ・ダイバースである、と論じた。Walker は代わりにニューロ・マイノリティ(神経学的少数派)という語を「神経学的に定型でない人々を指す、良い、病理化しない言葉」として提案した。彼は異なる神経学的な様態を持つ人々は「支配的な文化から周縁化され、十分に適応できていない」と言う[5]。Walker は包括的な概念としてのニューロ・ダイバーシティと、パラダイムとしてのそれ(ニューロ・ダイバーシティを他の形の多様性と同様の社会的力学の影響を受けるヒトの多様性の自然な形として理解すること)とを区別することを提案している。[5]ニューロ・ダイバーシティ・パラダイムは、ニューロ・マイノリティを神経学的に定型な多数派からの逸脱であるという理由で問題ある(problematic)病的な(pathological)偏りであると表現する病理学的パラダイムと対照される。
自閉者の権利運動詳細は「自閉者の権利運動」を参照

自閉者の権利運動(autism rights movement, ARM)はニューロダイバーシティ運動の中における社会運動で、自閉の当事者や支援者、および社会がニューロダイバーシティの視点(自閉を治療されるべき精神障害というよりも機能的な多様性として受け入れる立場)を取り入れることを奨励するものである[6]。自閉者の権利運動は様々な目標を掲げている。たとえば、自閉的なふるまいを受容すること[7]、自閉者に対して定型発達を真似た行動を強制するのではなく、自閉の特性に合わせたコーピングスキルを身につけられるようなセラピー[8]、自閉者が自分らしく交流できるような社会的ネットワークやイベントづくり[9]、また、自閉の人びとを社会的マイノリティとして認識すること[10]などが含まれる。

自閉の権利やニューロ・ダイバーシティの立場からすると、自閉スペクトラムは遺伝的であり、それはヒトゲノムの自然な発現として受容されるべきであるとされる。この視点はよく似た次の2つの見方とは区別される:自閉は遺伝子の欠陥によって引き起こされるもので、自閉を引き起こす遺伝子を標的として対処されるべきである、とする主流な視点;[6]

自閉の権利を主張する当事者の多くは、自分たちのことを、「自閉」(autistic)や「アスピー」(aspie)といった、自閉の状態をアイデンティティに内在的(intrinsic)な部分として捉える呼び方を使う[11][注釈 1]。「自閉のある人」(Person with autism)というような、人に診断がくっつく呼び方とは対照的に、「自閉」や「自閉者」(Autistic person)」という呼び方は自閉をその人のアイデンティティとして肯定する意味合いを含むため、自閉に対するスティグマを減らし、当事者のメンタルヘルスを向上させる効果が期待されている[13]。英語圏では「自閉」「自閉者」(Autistic person)というアイデンティティファーストの呼び方を好む人が多数派であるが、他言語ではそうとは限らず、両者が混じり合った過渡期にあるようである[14]アメリカ心理学会ではそれぞれの場合に応じて偏見やスティグマの少ない呼び方を使うように推奨しており、不明な場合は当事者団体のガイダンスに従うこととしている[15]。英語圏の代表的な当事者団体Autistic Self Advocacy Networkでは、アイデンティティファースト(自閉・自閉者)の呼び方を使うことを推奨している[16]
反治療的な視点

自閉者の権利運動に賛同する人々は、自閉を病気ではなく個人のあり方であると見なし、不必要な治療を施すべきでないと主張する[17]。自閉と関連付けられる行動や言語の違いを「正そう」とする治療、例えば 応用行動分析を、単に的外れであるというだけではなく、反倫理的でもあると考える人もいる[18]

反治療的な立場の主張はたとえば「自閉症スペクトラム障害はそれ自体としては障害ではなく、自然に起こるばらつきである。神経の配線のバリエーションの一つであり、比較的少ない遺伝子発現の亜型だ[17]」というものである。このように考えるなら、自閉は人間の個性のひとつであり、当たり前にいてよい存在で、必要ならサポートを得ることができ、受容されるべきあり方である。忌避され、差別され、抹消されるべきあり方ではない[17][19]。自閉者の奇妙さやユニークさは他の様々なマイノリティと同様に容認されるべきであり、「自閉症を治そう」とする試みは、一般的な病気の治療と対比されるものではなく、左利きを治そうとするような時代遅れで馬鹿げた試みであるとの主張もある[17][20]。ケンブリッジ大学教授で発達心理学者・自閉症研究者であるサイモン・バロン=コーエンも「自閉症の治療」というアプローチは乱暴であり、自閉者の良い部分まで消してしまう恐れがあると発言している[21]。自閉者の権利運動は障害者権利運動の大きな流れの一部であり、障害の社会モデルを採用している[22]。社会モデルは障害を個人の欠陥ではなく社会によって作られた制約とみなす考え方であり、その観点からすれば自閉者の直面する困難は個人の問題よりもむしろ、社会による構造的な差別であるといえる。
アドボカシー

2013年に自閉特性について当事者やその関係者にオンライン調査を行なったSteven Kappらは「自閉特性は欠陥ではなく違いであるとする見方は、自閉特性の手綱を取り本人の発達にとって利益がある方向へ進めることが重要であると主張する。この見方は、違いの礼賛と欠陥の治療という誤った対立を超えるものである」と結論づけている[23]

また、倫理学者のAndrew FentonとTim Krahnによると、ニューロダイバーシティの支持者たちは自閉症や自閉症をとりまく社会状況を再概念化することを目論んでいる。すなわち、神経学的な違いは必ずしも治療される必要があるわけではないと知らしめること、「?状態、?疾患、?障害、?病」といった言葉を用いる言語体系を変更すること、新しいタイプの自立のあり方を示すこと、神経学的な違いを持つ人が自分自身の治療についてどんな治療を受けるかあるいは全く受けないかなどをより自由に選択できるようにすることを目指している[24]


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