ニューヨーク港
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ニューヨーク港(ニューヨークこう、: New York Harbor)は、ニューヨーク市近辺のハドソン川河口近くにある川、湾および干満のある入り江を集合的に呼ぶ地理的な言葉である。時には「ニューヨークニュージャージーの港」という意味にも解釈される。狭義ではアッパー・ニューヨーク湾のみを指す場合がある。ニュージャージー州岸リバティ公園からニューヨーク港を隔ててマンハッタンを臨む
地理ニューヨーク港近辺の地図。1.ハドソン川、2.イースト川、3.ロングアイランド湾、4.ニューアーク湾、5.アッパー・ニューヨーク湾、6.ローワー・ニューヨーク湾、7.ジャマイカ湾、8.大西洋

広い意味でニューヨーク港には次の水域とその岸が含まれる:アッパー・ニューヨーク湾ローワー・ニューヨーク湾、ノース川 (ハドソン川の下流部)、イースト川、キルバンクル、ニューアーク湾、アーサー・キル、ザ・ナローズ、ジャマイカ湾、ラリタン湾およびハーレム川である。水路面積は約1,200平方マイル (3,100 km2)、海岸(河岸)線長さは1,000マイル (1,600 km)以上ある。開発された岸は最高時に650マイル (1,000 km)あり、12の個別に活動する港湾施設がある。すなわち、マンハッタンブルックリン区クィーンズ区ブロンクス区スタテンアイランドパースアンボイエリザベスバイヨンヌニューアークジャージーシティホーボーケン、およびウィホーケンである。アメリカ合衆国地理命名局では「ニューヨーク港」という言葉が無いが、歴史、政治、商業および環境上で重要な用途がある。
港の歴史
エリー運河以前ニューアムステルダムローワーマンハッタン: 初期のイーストリバー・ドック(下左)、イギリスに対する防壁(右)。地図は西が上。(Castello Plan, 1660.)

17世紀のニューヨーク港に住んでいた先住民族であるレナペ族は言語学的にアルゴンキン語族に属し、この水路を漁労や移動に用いていた。1524年、ジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノが現在ザ・ナローズと呼ばれているブルックリンスタテンアイランドの間の海峡に停泊した。彼はここでレナペ族からカヌー・パーティを受けた。乗組員たちはスタテンアイランドの"the watering place"と呼ばれる泉で飲料水を補給したと言われている。この泉があったおおよその位置、現在のベイ・ストリートとビクトリー・ブールバードの角には記念碑が建っている。しかし、ヴェラッツァーノが残した文献の記述は曖昧な点がある。歴史家たちによって、彼が停泊した場所はほぼ、現在のヴェラザノ・ナローズ・ブリッジのブルックリン側あたりであろうと見当が付けられている。彼はその北に大きな湖を見たと記しているが、これは明らかにアッパー・ニューヨーク湾のことであろう。彼は、これより北には進んでおらず、ハドソン川を発見していないであろうと考えられている。この港を最初に訪れたと記録があるのは1609年ヘンリー・ハドソンである。

1624年ガバナーズアイランドでヨーロッパ人による最初の恒久的な移住・開拓が始められ、8年後にはブルックリンでも入植が始まった。間もなくこれらの場所の間を渡し舟が結んだ[1]オランダの植民地ニューネーデルラントの総督ピーター・ストイフェサントはイーストリバー下流のマンハッタンの岸に風や氷から守るために最初の桟橋を築くことを命じ、1648年に完成し、スクライアーズフック・ドックと名付けた(現在のパール通りブロード通りが交わる近く)。このことで、ニューヨークがイギリス13植民地の、そして後に新たに独立したアメリカ合衆国の主要港になる道を開いた[2]。1686年、イギリス植民地政府はこの岸辺一帯に市制を布いた。
エリー運河とその後

1824年、アメリカでは初めての乾ドックがイーストリバーに完成した。その場所と深さの故に、港は蒸気船の導入で急速に成長した。続いて1825年エリー運河の完成で、ニューヨークはアメリカ内陸部とヨーロッパおよびアメリカ東海岸を結ぶ最も重要な中継港になった[3]

1840年頃までに、ニューヨーク港を経由する旅客と貨物量はアメリカ全土の他の主要港を合わせたよりも多くなり、1900年までに世界でも最大級の港となった[4]。移民を受け入れる主要港となったエリスアイランドには、1892年から1956年の間に1,200万人が到着した[5]

1870年、ニューヨーク市は港湾開発を系統立てるためにドック部局を設立し、その最初の技師長になったのがジョージ・マクレランだった。

主要道路の改良で効率的な輸送が行われる前には、鉄道貨物はニュージャージーからマンハッタンまで渡し舟で運ばれた。すなわちタグボート、および列車を転がして船積みできるよう甲板にレールを敷いた「列車いかだ」(en:car float)の小さな船隊があった[6]。ニューヨーク市はライバルの港を凌ぐためにこの運航に助成金を出した[7]
第二次世界大戦とその後

アメリカ合衆国が第二次世界大戦に参入した後で、1942年1月、ドイツの「ドラムビート」作戦でUボートのエース級をアメリカ領海の商船隊に向けて攻撃させ、いわゆる「第二次ハッピータイム」が始まった。Uボートの艦長は町の灯りを背景にして浮かび上がる標的船に狙いを付けることができ、港内にアメリカ海軍の艦船が集中していたにも拘らず、比較的少ない損失で攻撃することができた。被害の中にはサンディフック沖のタンカー「コインブリア」やロングアイランド沖の「ノアネス」などがあった。アメリカの護送船団の主要積み出し点であったニューヨーク港は、第二次大西洋の戦いの効率よい集結地であり、アメリカ商船の損失は26隻中の1隻と、他のアメリカ軍の成果を凌いだ[8]

港の活動は1943年3月がその最高点であり、543隻が停泊して護送船団あるいは係船への割付を待っていた(750の桟橋あるいはドックに425隻の外洋型船舶が待機した)。1,100の倉庫と1.5平方マイル (3.8 km2)の囲まれた場所で荷物を扱い、575隻のタグボートと39箇所の造船所があった(おそらく最も重要なのは1801年に設立されたニューヨーク海軍造船所)。重機械の日替わり品揃えによってニューヨーク港は世界でも最も忙しい所となった[9]
海運

船舶の運航のために港には約240マイル (380 km)の水路(水先案内人が必要)と、アッパー・ニューヨーク湾を中心に投錨地および港湾施設がある[10]


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