ニューヨーク州の歴史
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、ニューヨーク州の歴史について説明しています。ニューヨーク市の歴史については「ニューヨーク市の歴史」をご覧ください。

ニューヨーク州の歴史(ニューヨークしゅうのれきし、英:History of New York)では、主に現在のアメリカ合衆国ニューヨーク州に、ヨーロッパ人が植民地を建設し始めてからの歴史を概説する。ニューヨーク州、通称エンパイア・ステートは、17世紀に交易のための植民地としてオランダ共和国が最初にニューネーデルラントを設立して以来、アメリカの政治、金融、産業、交通および文化の中心であり続けた。この植民地がイングランド王国に奪われ、アメリカ独立戦争イギリスから独立を勝ち取って最終的に現在のアメリカ合衆国の一部となった。
初期の歴史ハドソン川渓谷の初期オランダ地図。1634年頃(北が右になっている)

ニューヨーク西部は、ヨーロッパ人が到来する少なくとも500年前からイロコイ連邦の6種族が住んでいた。イロコイ族はセネカ湖とカユガ湖の間の地域を草原として維持し、草食のアメリカバイソンの群れなど野生の狩猟対象動物が豊富だった。植民地時代、イロコイ族はトウモロコシ、野菜および果樹を栽培し、牛や豚を飼育して繁栄していた。魚も豊富だった。

現在のニューヨーク市周辺の南部は長い間レナペ族が住んでいた。1524年、初めてニューヨーク港に入ったヨーロッパ人探検家ジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノはカヌーに乗ったレナペ族と出逢った。ヴェラッツァーノはこの地域をフランスフランソワ1世に敬意を表して「ヌーベル・アングレーム」[1]と名付けた。フランス人探検家で地図制作者、サミュエル・ド・シャンプラン1608年にニューヨークを探検した記録を残した。
ニューネーデルラント植民地詳細は「ニューネーデルラント」を参照
ニューヨーク植民地

1663年ヨーク公ジェームズが1635年にスターリング伯に与えられていたニューイングランドロングアイランドや他の島々の特許を購入した。翌年ヨーク公は武装遠征隊を派遣してニューアムステルダムを占領し、それ以降この地域はヨーク公の名に因んでニューヨーク植民地と呼ばれた[2][3]。この征服は1667年7月のブレダ条約で確認された。1673年7月、オランダ艦隊がニューヨークを再奪取したが、1674年2月のウェストミンスター条約でイギリスに戻された。

ニューヨーク植民地は1664年の植民地憲章で設立された。ニューヨーク植民地憲章は西方への拡張について制限を設けないとしていたが、その地域には先住民族が住んでいた。マサチューセッツ湾植民地の憲章にも同じ条項があり、植民地とイロコイ族の間に領土紛争が引き起こされた。ニューネーデルラントの南西部には別にニュージャージー植民地が創設され、またさらに南西部にはペンシルベニア植民地が設けられた。

モホーク川上流からエリー湖にかけて広大な土地があり、そこにはイロコイ族が数少なく住んでおり、植民地人にとっては実質的に未知の土地だった。マサチューセッツとニューヨークの植民地憲章はどちらも、西方への無限の拡張を認めていたので、この土地への領有権主張が論争となった。ハドソン渓谷やモホーク渓谷にいた元々のオランダ人開拓者とニューヨーク東部で急速に増えつつあったイギリス人との間に多くの緊張関係もあり、ドイツ人達もモホーク地区で開拓地を設立しつつあった。
アメリカ独立戦争詳細は「ニューヨーク・ニュージャージー方面作戦」を参照

パトリオット(愛国者)の組織「自由の息子達」は印紙法やその後の耐え難き諸法に続く1760年代1770年代にニューヨークで活動し、イギリス軍と衝突してゴールデンヒルの戦いで頂点となり、リバティポールを巡る長引く小競り合いとなった。13植民地の心を同じくする人々を協力させるために1774年にパトリオットによって通信委員会が創設され、以前の法律で否定されたイギリス人としての権利やイギリスの議会代表権が無いことについて、その考えるところを要求した。通信委員会はニューヨーク植民地議会の創設に繋がり、1775年までにイギリスの統治機関と実質的に交代した。ニューヨーク植民地議会は第二次大陸会議に代表を送り、その場で独立について全会一致で可決した、ニューヨーク邦は1776年7月9日に創設された。その後間もなく、陰謀探査撲滅のための委員会が恒久的に作られ、独立派に対して敵と分かった者あるいは疑いの有る者の告発を認める多くの法を成立させた。その市民権が取り消され、財産が没収された後で、多くの者はイギリス軍が支配している地域に逃避地を求めた。1777年、ニューヨーク邦はその住民に厳密な忠誠の誓いを要求し、これを拒んだ者はイギリス軍が支配するニューヨーク市に追放された。ニューヨーク植民地議会は1777年ニューヨーク憲法の採択により邦政府に置き換えられた。

タイコンデロガ砦の占領によって、1775年のボストン包囲戦からイギリスのボストン明け渡しを強制するための大砲と弾薬を手に入れた。また不成功に終わったが1775年のカナダ侵攻作戦に向けての地盤となった。独立宣言後、アメリカ独立戦争で最初の大きな会戦、かつこの戦争で最大の戦いは1776年のニューヨークで行われたロングアイランドの戦い(別名、ブルックリンの戦い)だった。この年には他にもシャンプレーン湖バルカー島の戦いが行われた。ジョージ・ワシントン将軍の大陸軍マンハッタン島から撤退し、その後イギリス軍はニューヨーク市を戦争の残り期間北アメリカでの作戦の軍事と政治の拠点とした。その結果、ニューヨーク市はワシントンの情報網にとって注意すべき中心にもなった。ウォールアバウト湾の悪名高き監獄船HMSジャージーでは、独立戦争の戦闘を全て合わせたよりも多くのアメリカ人戦闘員が国際的無視の中で死んだ。1777年のサラトガの戦いでイギリス軍主要部隊が大陸軍に捕獲されたのはこの戦争で2回有ったイギリス軍降伏の初回のものであり、イギリス軍のカナダ方面軍とニューヨーク市の軍隊との結合を妨げ、フランスをして独立推進側に同盟を決断させることになった。1780年ベネディクト・アーノルドはニューヨークのウェストポイント砦をイギリス軍に渡そうとして失敗した。これが成功すればイギリス軍がハドソン渓谷を支配できるところだった。1783年パリ条約に従い、13植民地におけるイギリス当局の最後の痕跡となっていたニューヨーク市の軍隊が1783年に離れ、その日は長く開放の日として祝われることになった。

独立戦争の間、イロコイ連邦の4種族はイギリス軍に付いて戦い、オナイダ族とタスカローラ族が例外だった。1779年ジョン・サリバン少将がイロコイ族を討伐するために派遣された。サリバン遠征隊はフィンガー湖群やジェネシー・カントリーを通って北へ進軍し、イロコイ族の集落をすべて焼き、穀物や果樹園を破壊した。逃亡民はナイアガラ砦に逃げ、次の冬を飢えと惨めさの中で過ごした。何百という者達が寒さ、飢えおよび病気で死んだ。戦後多くの者はカナダに移住した。そこに居ようと居まいと大半が戦後に土地を失った。買収された土地の中には個々の種族によって現在も領有権主張の対象になっているところがある。
建国初期:1783年-1820年

サリバンの隊員はその方面作戦からペンシルベニアやニューイングランドに戻ってこの新しい領土の莫大な豊かさについて語った。彼等の多くは独立戦争への従軍に感謝するために土地特許を与えられた。1786年から1797年の間に豊かな土地の投機家集団が幾つかが互いにあるいは隣接する州と、さらには先住民族と協定を結び、ニューヨーク州西部の広大な土地の権利を取得した。イロコイ族の土地を買収したものの中には6種族の中の個々の種族によって現在も多くの領有権主張の対象になっているところがある。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:66 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef