ニューヨーク・フィルハーモニック
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ニューヨーク・フィルハーモニック
New York Philharmonic
本拠地のディヴィッド・ゲフィン・ホール
基本情報
出身地 アメリカ合衆国 ニューヨーク州ニューヨーク
ジャンルクラシック音楽
活動期間1842年 -
公式サイトnyphil.org

メンバー音楽監督
ヤープ・ファン・ズウェーデン
コンサートマスター
フランク・ホアン
名誉音楽監督
クルト・マズア
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ニューヨーク・フィルハーモニック(英語: New York Philharmonic)は、アメリカニューヨークを本拠に活動しているオーケストラである。「アメリカ5大オーケストラ("Big Five)」[1]と言われるオーケストラのひとつ。英語表記の頭文字をとってNYPと略されることがある。オーケストラの運営は、法人である"The Philharmonic-Symphony Society of New York, Inc."が行っている[2]
概要

ニューヨークで唯一、常設されたコンサートオーケストラである。より人口の少ないロンドン、ベルリン、パリなどは5?7団体を擁しており、クラシック音楽においては後発の東京に比べても少ないが、1団体集約の傾向は米国の他の大都市にも見られる。2010年までに通算15,000回以上の公演を行い、現在は年間に約180回のコンサートを行なっている。1917年の初録音から現在までに2000作品以上が録音されている[3]

その長い歴史の中で必ずしも常に最高の演奏水準を保ってきたわけではないが、伝統的に特に管楽器に名手を多く擁し、幅広いレパートリーに対応できる柔軟性を誇っている。ニューヨーク・フィルの自主制作CD“The Historical Broadcasts 1923 to 1987”のブックレットには、ニューヨーク・フィルの特徴を「どの指揮者にも合わせることのできる『カメレオンのような』柔軟性」と記されている(p.23)。逆に、他のアメリカの主要オーケストラ(たとえば、オーマンディストコフスキーフィラデルフィアセルクリーヴランドショルティシカゴクーセヴィツキー小澤征爾あるいはミュンシュボストン)に比べると、特定の指揮者との長期間の結び付きは、ニューヨーク・フィルにはない。
歴史[4]
草創期創立者ユーレリ・コレルリ・ヒル

創立はウィーン・フィルハーモニー管弦楽団と同じ1842年、この年の4月に「フィルハーモニック・ソサエティ・オヴ・ニューヨーク」(Philharmonic Society of New York)が設立され、同年12月7日にユーレリ・コレルリ・ヒルの指揮のもとで初めてのコンサートが開かれた。演目はベートーヴェン第5交響曲、カリヴォダの序曲など。

1877年から1891年までフィルハーモニーは、後にシカゴ交響楽団の創設者となるセオドア・トーマスを常任指揮者に迎えた。トーマス在任中の1878年に、ニューヨーク・フィルの強力な好敵手となるニューヨーク交響楽団が、レオポルド・ダムロッシュの手で創設される。その7年後にダムロッシュが逝去すると、後任には彼の息子であるウォルター・ダムロッシュがニューヨーク響の常任におさまることになる。

ニューヨーク・フィルのかつてのホームグラウンドだったカーネギー・ホールのオープンは、1891年5月5日のことである。1893年にはドヴォルザーク交響曲第9番「新世界より」の世界初演を、アントン・ザイドル指揮で行った。

ニューヨーク・フィルは1909年グスタフ・マーラーを常任に迎え、演奏レヴェルの向上に努め、楽団員をフルタイムの団員とした。第一次世界大戦中の1917年10月にはレコード録音も始まっている[5]

また、1918年には日本人として初めて山田耕筰が自作曲を含む演奏会を指揮している。
第一次世界大戦後の拡大

1921年にナショナル交響楽団(現在のワシントン・ナショナル交響楽団とは別)を、1923年にはニューヨーク・シティ交響楽団を吸収し、両オーケストラの吸収に伴いジョセフ・ストランスキーウィレム・メンゲルベルクの2人が常任の地位を分け合う双頭体制がスタートした。1924年には、教育者としても名高い作曲家のアーネスト・シェリングによって「青少年のためのコンサート」(Young People's Concert)が開始されている。

1925年からの2年間、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーがフィルハーモニーへ集中的に客演している。1927年からアルトゥーロ・トスカニーニとメンゲルベルクの双頭体制に代わり、1928年3月20日には最大のライバルであったニューヨーク交響楽団を吸収した。これによって名称はニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団となった。この吸収合併の際、オーディションを担当したのはメンゲルベルクである。また、トスカニーニの時代には木管楽器(特にファゴット)にドイツ式システムを採用することで機動性が格段に増し、弦楽器にはユダヤ系奏者が多数在籍して表情豊かな演奏を聞かせた。トスカニーニの厳格なトレーニングとも相まって、正確なアンサンブルが高く賞賛された。1930年のヨーロッパ演奏旅行では、まだまだアメリカのオーケストラを低く見る風潮が強かった当時のヨーロッパ楽界に、大きな衝撃をもたらした。今日でも、1930年代がニューヨーク・フィルの最盛期であったと評価する向きもある。ユダヤ系奏者が多かった(1933年のナチス・ドイツ成立によって迫害され、ドイツから逃れてきたユダヤ系奏者が多かった)ことから、「ジューヨーク・フィル」(Jew York Philharmonic)と呼ばれることもあった。

1936年にトスカニーニがニューヨーク・フィルの常任を退き、その後任にはフルトヴェングラー、フリッツ・ブッシュの名前が挙がったものの実現せず、当時まだ30代だったジョン・バルビローリが引き継いだ。バルビローリは清新な気風を吹き込んだが、いかんせん大カリスマの後では経験不足は否めず、オーケストラは低迷期に入る。翌1937年には同じニューヨークを本拠とし、前常任指揮者のトスカニーニを冠に戴いたNBC交響楽団が設立された。1942年から1943年にかけての創立100周年を記念するシーズン中常任を置かず、客演指揮者の出演が続いた。

1943年から1947年にかけてはアルトゥール・ロジンスキが常任のポストについている。彼のために「音楽監督」の称号が新設された。1943年11月14日には、当時副指揮者だったレナード・バーンスタインが、ブルーノ・ワルターの代役としてニューヨーク・フィルに伝説的なデビューを飾った。曲目はリヒャルト・シュトラウスの『ドン・キホーテ』、シューマンの『マンフレッド』序曲、ミクロス・ロージャの『主題、変奏と終曲』、アンコールにワーグナーの『ニュルンベルクのマイスタージンガー』前奏曲が演奏されている。


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