ニューヨーク・アート・カルテット
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ニューヨーク・アート・カルテット
New York Art Quartet
出身地
アメリカ合衆国
ジャンルフリー・ジャズ

旧メンバージョン・チカイ
ラズウェル・ラッド
ミルフォード・グレイヴス
ルイス・ウォレル
レジー・ワークマン
フィン・ヴォン・エイベン

ニューヨーク・アート・カルテット(New York Art Quartet、NYAQ)は、1964年にニューヨークで結成されたフリー・ジャズ・アンサンブルで、元々はサックス奏者のジョン・チカイ、トロンボーン奏者のラズウェル・ラッド、ドラマーのミルフォード・グレイヴス、ベーシストのルイス・ウォレルで構成されていた[1]。その後、ウォレルの代わりに、レジー・ワークマン、フィン・ヴォン・エイベン、ハロルド・ドッドソン、エディ・ゴメススティーヴ・スワロウ、ブエル・ネイドリンガーを含む他のベーシストが参加した[1]All About Jazzの評論家クリフォード・アレンは、このグループが「アンダーグラウンドのフリー・ジャズにおいて、最もパワフルな音楽の一部を切り出した」と書いた[2]

1962年11月、チカイは、その年の初めにヘルシンキ・ジャズ・フェスティバルで出会ったアーチー・シェップビル・ディクソンの勧めで、母国デンマークからニューヨークへ移住した[3]。ニューヨークに到着すると、チカイはシェップやラズウェル・ラッドらを含むディクソンのグループで演奏を始め、ドン・チェリーや他のさまざまなミュージシャンとも共演した[3]。1963年の夏までに、チカイ、シェップ、チェリーはベーシストのドン・ムーア、ドラマーのJ・C・モーゼスとともにニューヨーク・コンテンポラリー・ファイヴを結成し、ラッドはシェップとともにディクソンと演奏を続けた[3][4]。ラッドによれば、新しいカルテットを結成するというアイデアはチカイから生まれ[5]、2人は映画監督マイケル・スノウのロフト・スペースでムーアとモーゼスとともに演奏を始めたという[4]。やがてモーゼスが自身の役割に対する相互の不満の結果として脱退し[3]、ラッドとチカイはすぐにサックス奏者のジュゼッピ・ローガンからドラマーのミルフォード・グレイヴスを紹介された。チカイはこう回想している。「これはとても嬉しい驚きでしたが、それ以上に、ポリリズムによる同じリズムの統一感、あるいは同じ激しさと音楽性の感覚を持ったニューヨークの若いミュージシャンたちの音楽を聴いたことがなかったため、グレイヴスはラッドと私を単純に困惑させたのです」[1]。グレイヴスは「結局、30分も一緒に演奏して、ラッドとチカイを驚かせた。彼らは即座に後のニューヨーク・アート・カルテットに加わるよう誘った」[6]。グレイヴスは後に、グループへの参加への誘いは「私の精神的および創造的可能性の進化段階が制限なく表現される必要があったときに」来たと述べた[7]。しかし、チカイが「ベーシストのドン・ムーアは、この魔術師のようなパーカッショニストをとても怖がり、そんなことは真実ではないし、あり得ないと判断して、我々との演奏を拒否したのです」と回想しているように、グループは彼の代わりにベーシストのルイス・ウォレルを迎え入れた[1]

1964年7月、チカイとラッドは、マイケル・スノウ監督による映画のサウンドトラック・アルバム『ニューヨーク・アイ・アンド・イアー・コントロール』を録音するために、アルバート・アイラー、ドン・チェリー、ゲイリー・ピーコック、サニー・マレイからなるアイラーのカルテットに短期間参加した[8]。その秋、ニューヨーク・アート・カルテットは自らを「ジョン・チカイ・カルテット」と名乗り、ビル・ディクソン主催の「ジャズの十月革命」に参加してデビュー・コンサートを行った[9][4][10]。11月、NYAQは、ESPディスクのジャズ・アーティストのオリジナル・ラインナップの一部として最初のアルバムをレコーディングし[11][12]、その1か月後、ディクソン主催のフェスティバル「フォー・デイズ・イン・ディセンバー」に「ラズウェル・ラッド=ジョン・チカイ・カルテット」として出演し、ジャドソン・ホールにてサン・ラの対バンとして演奏した[13][14]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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