ニューメキシコ州の歴史
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ニューメキシコ州の歴史(History of New Mexico)は、1500年代にこのエリアを探険したスペイン人が、インディアンプエブロ族と遭遇した時に初めて記録された。それ以来、このエリアはスペインメキシコアメリカ合衆国によって統治された。
プエブロ族の時代

ニューメキシコ州での人間の居住は、野営地と石器の証拠が残されている狩猟採集社会クローヴィス文化があった1万年以上前にまでさかのぼる。農業の発明の後、古代プエブロ人が、石またはアドベレンガ(日干ししたレンガ)で家を建てて居住していた。古代プエブロ人は紀元1000年頃に最盛を迎えた。その後の気候の変化は、大きな川沿いの地域への移住を導き、そこに最初に居住した現代のプエブロ族の文化が進化した。

有史以前のインディアンの遺跡は、現在のサンタフェにその存在を示している。アルバカーキ近くのサンディア山脈にある洞窟には、新世界での最も早い居住者の痕跡が見られる。プエブロ族は、1200年代に栄えた定住性の文化を構築し、リオ・グランデ川流域に居住し、小さな集落を建築した。

スペイン人は、16世紀にプエブロ文化に遭遇した。1527年のナルバエス遠征隊の4人の生存者のうちの一人であるカベサ・デ・バカが、その困難な探険の途中、ニューメキシコのどこかにある素敵な町についてインディアンから話を聞いたことを、1535年に記述した。それは当時ヌエバ・エスパーニャの植民者に広まっていたシボラの7都市伝説と重なり、それを検証するための遠征に任命されたマルコス・デ・ニサは、帰国後、シボラの存在を熱心に認めた。しかしこれは、フランシスコ・バスケス・デ・コロナドによる、1540年から1542年の間の大規模な探険によって、嘘であったことが明した。コロナドは1541年に、今日コロナド国有記念物に保存されている出土した集落の近くでキャンプをした。リオ・グランデ川流域の上流を探険している間の彼のプエブロ族への虐待は、スペイン人のニューメキシコの征服に対するその後の敵意へと通じることになった。

現在のニューメキシコ州の3大プエブロは、ズニ、サントドミンゴ、そしてラグーナである。
スペイン植民地時代
スペイン人による探険と植民地化「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」も参照

フランシスコ・バスケス・デ・コロナドは、1540年から1542年の間、メキシコのコンポステラに大規模な探険隊を集めた。カベサ・デ・バカが、フロリダからメキシコまでの8年間にわたる悲惨な旅の末に、ついに到着したといわれていた、伝説のシボラの7つの黄金都市を発見するためであった。カベサ・デ・バカと3人の仲間は、1527年6月17日にフロリダへ向かって、80頭の馬と残りの探険家すべてを失ったパンフィロ・デ・ナルバエス探険隊の生き残りだった。これらのカベサ・デ・バカ他4人の生存者たちは、太平洋沿岸にあるメキシコのシノロアに到着するのに大変な8年を費やし、その間に多くのインディアン部族を訪ねた。

コロナドと彼の支援者たちは、乗用と運搬用に馬とラバを1300頭、それに携帯用食糧として100個の羊と牛の頭を手に入れ、この不運な事業に財産を費やした。コロナドたちは1541年、いくつかのアドベで造られたプエブロ集落を見つけることはできたが、黄金都市は発見できなかった。アメリカ南西部グレートプレーンズでのさらなる広範囲にわたる探険でも、素晴らしい黄金の街はどこにもなかった。すっかり落ち込んで貧窮したコロナドたちは、ニューメキシコを後にしてメキシコへ帰った。この時、おそらくコロナドの残した最もすばらしい遺産は、アメリカの平野での数頭の馬と牛の損失だった。 これらの動物は5年毎に頭数が倍増して、すぐに荒野でスクスクと育った。後に荒野に群れを成すほどになるスペインの牛と同様に、100?150年後にはほとんどすべてのインディアンたちが乗ることになる馬の先駆けになった。

コロナドの50年以上後の1598年、フアン・デ・オニャーテは、リオ・グランデ川の上に、現在のニューメキシコ州でのヨーロッパ人による最初の開拓地、サンフアンを創った。オニャーテは、ヌエバ・エスパーニャから遠く離れた植民地までの、距離にして700マイル(1100キロ)の「エル・カミノ・レアル」(英:The Royal Road)と名付けられた陸路を開拓した。オニャーテは、新しいヌエボ・メヒコ州(スペイン領のニューメキシコ州)の最初の総督になった。アコマ・プエブロにいるインディアンたちは、 このスペイン人の台頭に対して反抗したが、激しい抑圧に直面してしまった。アコマとの戦いで、彼らは従属を拒否し、オニャーテは11人の兵士と2人の使用人を失ったが、数百人のインディアンたちを殺して24人を処刑した。カトリックの伝道の名目で植民地にミッション(伝道所)を建設していたフランシスコ会は、相変わらずプエブロの人々に対してキリスト教改宗を強制し、反発を受けていた。

1609年、後のヌエバメヒコ州の総督となるペドロ・デ・ペラルタは、 サングレ・デ・クリスト山脈のもとにサンタフェの地を開拓した。サンタフェは、この建設時以来ずっとニューメキシコ州の州都であるため、米国で最古の州都である。1610年、ペラルタは総督邸を建てた。植民地の繁栄には失敗したが、いくつかの伝道所は残った。スペイン人開拓者たちは現在のアルバカーキ(1706年に創設された)の場所に1600年代中頃には到着した。宣教師たちはインディアンをキリスト教に改宗させようとしたが、ほとんど成功しなかった。
プエブロの反乱詳細は「プエブロの反乱」を参照

プエブロ族の伝統的な経済は、ヌエバ・エスパーニャエンコミエンダ制によって混乱させられた。プエブロ族の伝統的な宗教は禁止され、宗教者は処刑されて祭壇や集会所は破壊されて、スペイン人植民者に対する潜在的な敵意を強めていった。1670年代の干ばつは、プエブロに飢饉をもたらしただけではなく、ナバホ族コマンチ族アパッチ族からの攻撃も増大した。ヨーロッパから導入された病気と強制労働による労苦はプエブロ族の人口を大きく減少させた。天災に対してカトリック教会では救われないと感じた人々は、もともとの古い神々への信仰に戻っていった。

プエブロ族の宗教的リーダーのポペは反乱を計画し、これを指揮した。1680年8月10日、それぞれのプエブロ集落で一斉に攻撃が開始された。18人のフランシスコ修道士の聖職者、3人の平修士、男女子供合わせて380人のスペイン人が殺され、スペイン人開拓者は唯一のスペイン人の街であるサンタフェと、反逆に参加しなかった数少ない集落のひとつ、イスレタ・プエブロの村に逃げ込んだ。ポペの賊はサンタフェの町を囲い込み、水の供給を断ち切り、9月21日にスペイン人の移住者たちは首都から一掃された。

スペイン人の後退によって、ニューメキシコにはプエブロ族の権力が残った。ポペは徹底してカトリックとスペイン文化を排除し、1688年頃に死ぬまで、プエブロの知事として総督邸に住み、プエブロたちから捧げものを集めた。ポペの死後、数百マイルもの距離と6つの異なる言語で隔てられた異なるプエブロの部族たちは権力闘争を始めた。このいざこざは、流浪部族による襲撃と7年間の干ばつとに共に、プエブロたちの結束を弱め、スペインによる再度の征服の舞台を整えた。

1692年7月、ニューメキシコ総督のディエゴ・デ・バルガスは、サンタフェの町を包囲し、スペイン王に忠誠を誓ってキリスト教信仰に戻るのならば、寛大な処置を約束するとして、プエブロ族に降伏するよう呼びかけた。プエブロ族のリーダーたちはサンタフェに集い、デ・バルガスと会い、和平に同意した。1692年9月14日、デ・バルガスは正式に失地回復の行為を宣言した。この後のスペインによる支配は、より穏やかな支配へと変わっていった。
スペインの馬

300年近いスペインの支配にもかかわらず、現在のアメリカ南西部の荒野ばかりの土地への入植者は増えなかった。その代わりに、スペインがアメリカ南西部にもたらしたものは、「アンダルシアの名馬」である。

最初は野生だった馬を捕らえて、次第にスペインの馬を手なずけるようになったアメリカ南西部のインディアンたちは、ニューメキシコのスペイン人牧場を襲撃し、スペイン人の伝道所から馬を盗み始めた。交易と襲撃によって、インディアンの馬の文化はアメリカ西部一帯で急速に広まった。1700年中頃までには、カナダと同じくらい遠く離れた数人のインディアンが、スペイン領南西部深くで略奪をし、馬を盗んでカナダまで持ち帰っていた。このように、馬の世話をできたミシシッピ川の西側のほとんどすべてのインディアン部族が、スペイン人によって新世界に連れてこられた馬を手なずけるに至り、スペインの馬は、交易または窃盗によって、次第に部族から部族へと分散された。

1803年と1804年のルイス・クラーク探検隊の遠征では、これらの仔馬の何頭かをインディアンたちと取り引きした。カリフォルニアの地理的に孤立した集落には、1780年代にスペイン人開拓者と宣教師によって持ち込まれるまで、馬も牛もいなかった。
スペイン人以外の白人による探険

ルイス・クラーク探検隊に続いて、多くの人がアメリカ南西部と西部の探険と毛皮の捕獲を開始した。

1807年、ゼブロン・パイクは、アメリカ合衆国政府のルイジアナ買収によってテキサスを通って戻る前に、ちょっとの間滞在したサンタフェの探険をした。


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