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出典検索?: "ニューヘイブン" コネチカット州
ニューヘイブン
City of New Haven
イェール大学の時計塔であるハークネス塔(Harkness Tower)。大学の、そしてニューヘイブンのシンボルである。
位置
コネチカット州内のニューヘイブン市の位置
座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯41度18分36秒 西経72度55分25秒 / 北緯41.31000度 西経72.92361度 / 41.31000; -72.92361
歴史
成立日1638年
行政
国 アメリカ合衆国
州 コネチカット州
郡ニューヘイブン郡
市ニューヘイブン
市長ジャスティン・エリッカー
(民主党)
地理
面積
市域52.4 km2
陸上 48.8 km2
水面 3.6 km2
水面面積比率 6.91%
人口
人口(2020年現在)
市域134,023人
人口密度 2,690.72人/km2
備考[1]
その他
等時帯東部標準時 (UTC-5)
夏時間東部夏時間 (UTC-4)
公式ウェブサイト : www.newhavenct.gov
ニューヘイブン(英: New Haven[2]、英語発音: [?nju? ?heivn] ニュー・ヘイヴン)は、アメリカ合衆国コネチカット州南部に位置する都市。人口は13万4023人(2020年)[1] で、ブリッジポート、スタンフォードに続く州第3の都市である。ニューヘイブン郡1郡からなる都市圏は約85万人(2020年)である[3]。
ニューヘイブンはイェール大学がキャンパスを構える学術都市としてつとに有名である。また、市内にニレ(エルム)の木が多く立っていることから、The Elm City(エルムの街)という別名を持っている。このニレをはじめとした緑の多い、全米最初の計画都市のひとつとしても知られている。
ニューヘイブンは大統領ゆかりの街でもある。ジョージ・ウォーカー・ブッシュは父ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュがイェール大学在学中にこのニューヘイブンで生まれた。ビル・クリントンは、イェール大学のロー・スクール在学中にヒラリー・クリントンと出会い、このニューヘイブンで暮らした。
変わったところでは、ニューヘイブンはイタリア系移民が多く住んでいたことから、アメリカ合衆国におけるピザ発祥の地のひとつとしても知られる(Frank Pepeが有名)。また、イェール大学の学生がFrisbeeという社名の入ったパイ皿を逆さにして投げて遊んでいたことがフライングディスク(フリスビー)の原型となったことから、フリスビー社が本社を構えていたブリッジポートとともに、フライングディスク発祥の地とも呼ばれている。 ヨーロッパ人が入植する前は、この地にはクィニピアック族(Quinnipiack
歴史
植民地時代
1638年4月、イングランド人牧師ジョン・ダベンポート(John Davenport)とロンドンの商人セオフィラス・イートン(Theophilus Eaton)に率いられ、500人の清教徒たちがマサチューセッツ湾植民地を発ち、船でこの地にたどり着いた。湾が天然の良港であったため、彼らはこの地にマサチューセッツを超える宗教コミュニティを築くことを望み、都市計画を立てた。一方、クィニピアック族は近隣に住むペコット族(Pequot)の攻撃から自分たちを守ることを条件に、入植者たちに土地を売り払った。
1640年頃までには、町の神政府と碁盤の目のように区画された街路に象徴される都市計画が実行に移されていた。また町の名もクィニピアックからニューヘイブンに改められた。町はニューヘイブン植民地の主都となった。この頃はニューヘイブンはハートフォードを中心とするコネチカット植民地とは別個に存在していた。しかし、1646年にニューヘイブン植民地は経済危機に見まわれた。イングランドに向けて貨物を満載した船が植民地に戻らなかったのである。この事件によりニューヘイブンの貿易拠点としての地位は低下し、ボストンやニューアムステルダム(現在のニューヨーク)に大きく水をあけられることになった。
1660年、ダベンポートの願いは遂に叶い、その3年前に死去したエドワード・ホプキンスの遺産約1,000ポンドを投じてホプキンス学園が創立された。1661年、チャールズ1世の死亡宣告書に署名した判事がチャールズ2世に「国王殺しの大罪人」として追われ、このニューヘイブンに逃げてきた。ダベンポートはこの3名の判事をかくまい、町の北西に連なるウェスト・ロックに住まわせた。現在のニューヘイブンでは、これらの判事はThe Three Judgesと呼ばれている。
1664年、イングランドの政治的圧力により、ニューヘイブン植民地はコネチカット植民地に併合された。1701年にニューヘイブンはハートフォードと共にコネチカット植民地の主都となった。この重都制はコネチカットが州に昇格した後も1873年まで続いた。