ニューヘイブン植民地
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コネチカット、ニューヘイブンおよびセイブルック各植民地の地図

ニューヘイブン植民地(ニューヘイブンしょくみんち、英:New Haven Colony)は、現在のアメリカ合衆国コネチカット州の中に、1637年から1662年まで25年間あったイギリス人による植民地である。その後はコネチカット植民地に統合された。
キニピアック植民地

1637年春、ジョン・ダベンポートというピューリタンの牧師がイギリスからオランダに追放されていた集団を率いてイギリスに戻り、そこから更にアメリカに渡った。この集団は6月26日、アン号でマサチューセッツ湾植民地ボストンに到着したが、マサチューセッツ湾植民地は宗教の規律が弛緩しているという印象を抱き、自分達の落ち着き先を求めて出て行くことに決めた。

その年の秋、テオフィロス・イートンが適当な入植地を探すために探検隊を率いて南のロングアイランド・サウンドの北海岸を探索した。イートンはキニピアック川の河口でインディアンから土地を購入した。1638年春、集団が出発し、4月14日、コネチカット海岸のニューヘイブンに到着した。そこはボストンとニューアムステルダムの中間にあって良い港があり、毛皮を求めるためにはコネチカット川もあり、交易には理想的な場所に思われた。しかし、この植民地は開拓地としてまた宗教的な実験地としては成功したが、交易の中心地となるにはまだ時間を要した。

1639年、住民は自治政府を作る為に基本条項を定めた。これは川沿いにある他の町でも同様なことをしていたことがきっかけでもあった。7人からなる政府委員会が設けられ、イートンは主席判事、カニンガムが牧師になった。基本条項の中では、「神の言葉が唯一の規則である」としており、イギリスで伝統的な慣習法を引き継ぐことになった。聖書には判事による裁判に関しては記述が無かったので、それを省き委員会が裁決を行った。教会の会衆のみが投票資格を得た。
ニューイングランド連盟の統一植民地

この植民地の成功は他のピューリタンも惹きつけ、さらにピューリタンではないものも集まってきた。住民は1639年にはミルフォードとギルフォード、1640年にはスタンフォードと、さらにロングアイランド・サウンドを渡り、ロングアイランドのノースフォークの南にサウスオールドの町を(当時はプランテーションと呼ばれた)造っていった。これらの町を合わせて「ニューイングランド統一植民地」と呼ぶ連盟を作った[1]

1643年にはブランフォードが加わり、これがニューヘイブン連盟としては最後の公式「プランテーション」となった。住民はマサチューセッツに倣った政府を置いたが、ピューリタンの規律を厳しく守ることは続けた。
ニュージャージー、フィラデルフィアおよび太平洋

1641年、この植民地はレナペ族からデラウェア川に沿ったトレントンの南の地域を購入することで、ニュージャージー南部とフィラデルフィアとなった所の領有権を主張した。そこにはケープメイやセイラムとなる開拓地が造られることになった [2]

インディアンとの条約ではデラウェアの土地の西側の境界を設けていなかったので、コネチカットにとっての法的根拠は大西洋から太平洋まで、デラウェア川両岸の全ての土地を所有する、いわゆる「海から海まで」ということになった。

1642年、ジョージ・ランバートン船長の船で50家族がスクーカル川の河口付近に渡って入植し、今日のフィラデルフィアとなる交易基地を建設した。この地域に既に入っていたオランダ人とスウェーデン人がこの基地を襲い建物を燃やした。スウェーデンの裁判所は「インディアンと共謀して不法侵入した」とランバートンを告発した[3]

ニューヘイブン植民地はニューイングランドの領主やピューリタンのジョン・ウィンスロップ知事から支援をもらえなかったので、「デラウェア植民地」は夏の「病気とそれに続く住民の死亡」のために「解散」したと宣言した[4]
幽霊船

植民地の初期は、海岸を航行可能な船しか持っていなかった。イギリスとの貿易のためにはマサチューセッツ湾植民地を介して行う必要があった。1645年、80トンの外洋航行可能な船を建造し、ランバートンを船長とした。その船が1646年に消えた。

1年半後の1647年の伝説に拠ると、雷雨の後で船の幻影が水平線上に現れたという。甲板には住民の友人も乗っているのが認められた。続いてマストが折れたように見え、縦揺れで乗員が海に投げ出され、船は転覆した。町の創設者達は終わりの時がきたと言ったという。

後にヘンリー・ワズワース・ロングフェローはこの出来事について『幽霊船』という詩を書いた[5]

A ship sailed from New Haven,And the keen and frosty airs,That filled her sails at parting,Were heavy with good men's prayers."O Lord! if it be thy pleasure"--Thus prayed the old divine--"To bury our friends in the ocean,Take them, for they are thine!"But Master Lamberton muttered,And under his breath said he,"This ship is so crank and waltyI fear our grave she will be!"

船はニューヘイブンを出港した厳しく凍るような気象の中を出港の時は荷物が一杯だったので善良なる男達の祈りで重かった。「おお神よ、これがあなたの喜びならば」--と古き神に祈った--「我々の友を大洋に沈めてくれ、彼らはあなたのものだから連れていってくれ」しかしランバートン船長は呟いた小声でこう言った「この船はガタガタなので船が墓場になるのではないだろうか!」


フィラデルフィアの災難と船が沈んだことで、植民地はその後交渉ごとで不利な立場になった。
国王殺しの追跡


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