ニューファンドランド島
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島の全体図カナダにおけるニューファンドランド・ラブラドール州(赤色部分)

ニューファンドランド島(ニューファンドランドとう、英語: Newfoundland [?nu?f?n(d)land, ?nu?f?nd?land]フランス語: Terre-Neuve カナダ・フランス語:[ta???.n??v])は、カナダの東海岸に位置するニューファンドランド犬のふるさとでもある。また沖合いの海域(グランドバンク)は、世界屈指の好漁場として名高い。
概要

ニューファンドランド島の人口は2001年現在で466,172人。周囲の島を含めると50万人を超える。ニューファンドランド・ラブラドール州の政治的・経済的な中心で、人口の最も多い部分でもある。州都セントジョンズはこの島の南東端、大西洋沿岸にある。1949年イギリス植民地からカナダに加入して以来、この島のある州は「ニューファンドランド州」と呼ばれていたが、ラブラドール半島にある地域・ラブラドール地方が大きな面積を占めていたことから2001年に現在の「ニューファンドランド・ラブラドール州」に改称された。

島の面積は、111,390km2で、州の27.5%を占める。世界では16番目、カナダでは4番目に大きな島である。島の最高点は標高814m のルイスヒルズ。州都セントジョンズの南にあるスピア岬はカナダのみならず、北米の最東端である。かつてニューファンドランド島は北米と欧州の航空路の中継点でもあり、島北部のガンダーにはニューファンドランド空港(現ガンダー国際空港)があった。

「ニューファンドランド」という名前は、ラテン語の「テラ・ノヴァ Terra Nova」という古称にちなむ。1497年イタリア人の探検家ジョン・カボット(John Cabot、あるいはイタリア語読みでジョヴァンニ・カボート Giovanni Caboto)がヨーロッパ人としてはじめてニューファンドランド島に到達したが、それに先立ちノース人らが西暦1000年ごろに到達していたとみられる。ノース人が記録に残している「ヴィンランド(Vinland)」の位置については議論が多いが、この島の北端にあるランス・オ・メドーはその一部と考えられている[1]

ニューファンドランド島住民は「ニューファンドランド・イングリッシュ」という英語方言および「ニューファンドランド・フレンチ」というフランス語方言を話す。かつては「ニューファンドランド・アイリッシュ」というアイルランド語方言や先住民ベオスック族(英語版)(Beothuk)の言語、ベオスック語が話されていた。
地理地形図

ニューファンドランド島は、ラブラドール半島からはベルアイル海峡で、ノバスコシア州先端のケープブレトン島からはカボット海峡で隔てられている。この島はセントローレンス川の巨大な河口を塞ぐように位置しており、セントローレンス湾を形成している。島の南岸の沖合いには、フランスの海外領土、サンピエール島・ミクロン島(Saint-Pierre et Miquelon)がある。また周囲にはトゥイリンゲート島(Twillingate)、ニューワールド島(New World)、フォーゴ島(Fogo)、ベル島(Belle Isle)などが点在し、アバロン半島などいくつもの半島が突き出している。西部には島内最大の湖グランド湖がある。

ニューファンドランド島は海洋性気候だが、寒流ラブラドル海流が島の東岸を南下したあと南岸を西へ流れているため気温は低めである。春は遅く短く、夏は涼しく、冬は厳寒である。1月には島全体が氷点下になり、夏でも高原には雪が残っている。降水量は十分で、北西より南岸のほうが若干雨が多い。島の北東部では冬には数十センチの降雪量がある。島はどこもが強いことも特徴である。また南岸はが頻繁に発生し「海煙(sea smoke)」と呼ばれるほどで、南部アバロン半島沖やグランドバンク付近は、春から夏にかけて暑い南風が寒冷なラブラドル海流の上を通るため、世界でももっとも深い霧が出る海域である。グランドバンクメキシコ湾流ラブラドル海流がぶつかる潮目の位置にあり、世界屈指の好漁場としてニューファンドランドの入植や経済に大きくかかわってきた。

冬は、北米大陸を東から西へ進む低気圧が島近くを通るため、11月から3月はノーイースターと呼ばれる激しい嵐が何度も島を襲い強風が吹き荒れる。夏には、南で発生したハリケーンが接近し、大風と大雨をもたらす。

ニューファンドランドの半分は森林地帯だが、南部と西部の広い範囲にしか生えない泥炭地や不毛の地が広がる。植生は気候に左右され、島南西の比較的温暖な谷間はトネリコニレが育ち、中央部や西部はカバノキマツが主である。バルサムモミ (balsam fir) やクロトウヒ (black spruce) の木は北東部以外の低地にはあちこちで見られ、北東部には寒い気候に強いアメリカヤマナラシ (Populus tremuloides)などが多い。

島は台地が多く、島の西部を南北に貫くロングレンジ山脈アパラチア山脈から伸びる山並の延長でもある。古代の岩盤が多く、気候のわりに肥沃な土を生み出している。
歴史
最初の人々ランス・オ・メドーのヴァイキング入植地跡

ニューファンドランドの初期の住民は、ヨーロッパ人到達時に住んでいたベオスック族(英語版)の祖先に当たる民族集団だったと推測される。ベオスックとはベオスック語で「人間」を意味した。ベオスック族の民族的起源は定かではないが、ラブラドール半島から渡ってきたと考えられる。その文化は現在では絶滅し、博物館にある歴史的・人類学的資料でしか偲ぶことができない。最後のベオスック人女性、シャナウディシト(Shanawdithit)は1829年にセントジョンズで亡くなっている。

ノース人ヴァイキング)が「ヴィンランド」で遭遇したスクレリング(skraeling、スクレリンガー)と呼ばれる先住の人々はおそらく後のベオスック族(英語版)の祖先のことと思われる。ヨーロッパ人と北米先住民の最初の衝突は、1006年ごろ、現在のランス・オ・メドー国定史跡(ノース人らの一団が恒久的な入植地を建設しようとした海岸沿いの地)の周辺で起こっている。ノース人のサガによれば、スクレリングたちは非常に凶暴であったとされ、友好関係の構築に失敗した新来のノース人たちは結局入植をあきらめ、島を撤退した。

ジョン・カボットの1497年の航海にはじまるヨーロッパ人到来の第二波では、ベオスック族との間に交渉が成り立った。この時期の島の人口は1,000人から5,000人の間と見積もられている。

ヨーロッパ人の入植地が年間を通した恒久的なものとなり、海岸線一帯に広がるに従い、漁撈にたよるベオスック族が生計を立てられる海沿いの土地は減少していった。ベオスック族が入植者達に殺され、飢餓と入植者の持ち込んだ疫病で激減した後の19世紀はじめには、生き残りはほんの僅かであった。植民地政府は先住民との対話を開始しようとしたが、既に遅すぎた。

現在のニューファンドランド島島民は、祖先をアメリカ先住民 - その多くは大陸部に住むミックマック族(Mi'kmaq、Mi'gmaq、Micmac) - にたどることが出来る人が多い。
ノース人の入植と航海者の伝説

ニューファンドランドは、ノース人の北米入植地のうち唯一、実際の入植跡が確認されている場所である。ノルウェー人の探検家ヘルゲ・イングスタッド(Helge Ingstad)とその妻で考古学者のアン・スタイン・イングスタッド(Anne Stine Ingstad)は、1960年に島北端のランス・オ・メドーで遺跡を発見した。長年にわたる発掘の結果、入植地はクリストファー・コロンブスの大西洋横断に500年以上先立つものと確認され、糸車鍛冶の道具などが発見されたことから北米における最古のヨーロッパ人の居住の痕跡とされた。ユネスコの世界遺産にも登録されたランス・オ・メドーは、ヴァイキングの航海者レイフ・エリクソンが到達したヴィンランドの入植地と信じられている。ノース人は先住民との衝突を起こし、おそらく999年から1001年までの、比較的短期間しか留まらなかった。1010年ごろにソルフィン・カルルセフニもヴィンランドへ大勢を連れて入植したという伝があるが、これも短期間に終わっている。

その他のヨーロッパの国の人たちもニューファンドランドの発見者だという言い伝えがある。アイルランド聖ブレンダンもこの島を発見したとされる人々の一人であり、『聖ブレンダンの航海』という歌はニューファンドランドでは有名である。ウェールズの民話では、マドック王子(Prince Madoc)が探検の末1170年にアメリカに到達したとされているが、彼の通った航路や到達した場所の詳細は分からない。スコットランドでは、オークニー伯ヘンリー・シンクレア(Henry I Sinclair, Earl of Orkney)が1300年代の末に新大陸を発見したとされる。ポルトガルでは、エンリケ航海王子1431年アゾレス諸島を発見したころに新大陸も発見されたという主張がある。1490年ごろに残された地図には、アイスランドの南西の、およそアイルランドと同程度の緯度に3つの島が描かれており、これがニューファンドランドと周辺の島だという説もある。これら3つの島は7人の司祭が発見した「7つの都市の島」あるいは「ブラジル島(Isle of Brasile)」と呼ばれている。ブリストルの商人が1480年にブラジル島を求めて航海したことを述べた記録が残っているが、何も見つからなかったという。
「再発見」と漁民の入植ジェームズ・クックの探検による地図、1775年フォーゴ島にある漁村、典型的なアウトポート

ノース人の放棄後、500年間にわたりヨーロッパ人の来訪がなかった島は、1497年のイタリア人航海者ジョン・カボットが再発見し「テラ・ノヴァ」と命名したことによりヨーロッパ人の知るところとなる。ジョン・カボットの上陸地点は島の東海岸のボナヴィスタ(Bonavista)と一般には信じられているが、グレート・ノーザン半島の先端のケープ・ボールド(Cape Bauld)など、東海岸の他の場所にも上陸地点ではないかという説がある。ケープ・ボールド説には、スペインの国立公文書館で発見されたブリストル商人の文書に、カボットたちがダージー・ヘッド(北緯51度34分)の1800マイル西へ進んだところに上陸したという記述があるが、この地理的位置はケープ・ボールドにだいたい合致する。同じ記録ではカボットが島本土上陸前に通り過ぎた小島の話があるが、ケープ・ボールドの海岸からベル島まではそう遠くないこともこの説を補強する。

カボットの後、ニューファンドランドにはポルトガル人、スペイン人、フランス人、バスク人、イングランド人などの漁師たちがたどり着いた。17世紀末、アイルランド人の漁師たちはこの島に「魚の島」あるいは「魚の土地」という意味の「Talamh an Eisc」という名をつけた。これはその後数世紀にわたるニューファンドランド沖合いのタイセイヨウダラ漁の重要性を予言するものだった。

この島に対するフランス語の名前は「Terre Neuve」(テル・ヌーヴ、新しい土地)である。英語の名前「Newfoundland」(ニューファンドランド、新しく見つかった土地)も1502年の書簡に最初の使用が認められ、地理学上も地図学上も絶えず使用され続けてきたカナダ最古のヨーロッパ人起源の地名の一つである。

1583年、イングランドの探検家サー・ハンフリー・ギルバート(Sir Humphrey Gilbert)がこの島に航海した時にはセントジョンズ付近でイングランド・フランス・ポルトガルの多くの船に遭遇したが、彼は公式にニューファンドランドはイングランドの植民地だと宣言した。しかし恒久的なヨーロッパ人の住民がなかったこと、ギルバートが帰路命を落としたことにより、イギリスの入植計画は頓挫した。

1610年7月5日、ブリストルの商人ジョン・ガイ(John Guy)はブリストルを発ち、39人の植民者とともにニューファンドランド島南西のクーパーズ・コーヴ(Cuper's Cove)に到達した。それ以前の恒久入植の試みも、この入植も、イングランドの投資家を儲けさせるほどの利益は生まなかった。しかしこの植民で、なんとかヨーロッパ人による入植地が形を成した。1620年までにイングランド西部の漁民はニューファンドランド島東海岸のほとんどから他国民を締め出したが、フランス人漁民は島の南岸および北の半島部を確保し続けた。ジョン・ガイ以降多くの港に入植が行われ各々に総督が立った。南部では1623年、ジョージ・カルヴァート(George Calvert)が勅許を得て植民活動を行い、カトリック教徒主体の植民地・アバロン領を現在のアバロン半島に樹立した。


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