ニューディール連合
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ニューディール連合(ニューディールれんごう、: New Deal coalition)とは、1932年から1960年代末のアメリカ合衆国において、ニューディール政策および民主党大統領候補を支持した利益集団や選挙母体の連合体を指す。1952年1956年の各大統領選挙ドワイト・アイゼンハワーに敗北を喫するも、この時代に民主党は主要政党にまで上り詰めてゆく。

フランクリン・ルーズベルトが党組織やマシーン労働組合ブルーカラー労働者マイノリティ農場経営者南部出身者の他知識人から成る連合体を構築[1]1968年の大統領選挙の時期に崩壊するが、党活動家が復権を目指し枠組みを維持することとなる[2]
政局再編

1932年の大統領選挙と1934年の下院選挙により、投票行動に長期的な変化がもたらされると共に、政界再編の動きが活発化。その中でルーズベルトは1933年ニューディール政策に着手し、労働組合、リベラル派宗教的、民族的あるいは人種的マイノリティ(なかんずくカトリック教徒、ユダヤ人およびアフリカ系)、南部出身の白人そして貧困層の連合体を築き上げていった。

都市のマシーンにより組織的な厚みが生み出され、諸計画の実施に必要な数百万もの救済事業や数十億ドルに上る資金を獲得。やがてはこうした支持母体が有権者の多数派を形成してゆく。とりわけ9つの大統領選挙(1932年 - 1948年1960年1964年)で民主党候補が勝利を収め、1932年から1980年までの途中4年間を除き、同党が両院を制する原動力となる(共和党1946年1952年にて多数派となるのみであった)。

ただ、決して公的に組織されたものではなく、支持母体間の意見の相違も目立った。国政に関しては概ね進歩的な施策を支持した一方、外交や人種問題となると一致する所が少なかったのが好例と言えよう。また、この連合体を1896年から1932年までの第四政党制に代わり、「第五政党制」と呼ぶ政治学者もいる[3]

ジャーナリストのシドニー・ラベルが1948年の大統領選挙後に有権者の調査を行った結果、ここ20年間で発達した「新中間層」にとって、当選者である民主党のハリー・トルーマンの方が、共和党のトマス・E・デューイより無難かつ保守的な候補であることが分かったという。このことについて、次のように述べている。少なからぬ有権者にとって、民主党は共和党に代わる「繁栄の政党」となった。郊外に転居した後、共和党に投票しなかったある男性にその理由を尋ねると、「私には良いや良いがあり、両親の時代よりも暮らし向きが遥かに良い。生涯一民主党員でいますよ。どうして変える必要があるんです?」という答えが返ってきたのである。[4]
都市

ルーズベルトは都市居住者、特に貧困層のマイノリティを惹きつけた。納税者や中小企業家、中産階級1936年の大統領選挙でルーズベルトに投票したものの、1937年から翌年にかけての景気後退が回復の約束を反故にしたように思われたため、一転して非難を浴びるようになる[5]

また、再選キャンペーンでは都市のマシーンに全く新しい用途を見出してゆく。伝統的に地方の名士は地元の選挙区を抑えるため、投票者数を最小限に留める傾向にあったが、ルーズベルトは郊外や町村の敵愾心に打ち勝つべく、大都市圏での支持を一手に集めようとしたのである。

郵政公社総裁のジェームズ・ファーレイや公共事業促進局(WPA、1935年 - 1943年理事ハリー・ホプキンス、地方レベルで民主党と絶縁した一方、ルーズベルトは連邦の自由裁量による支出、就中WPAを全国的な政治マシーンとして利用。救済を受けるべき国民は、政治信条に関わらず同局から仕事を受けられたが、数十万にも上る公共事業は地方の民主党マシーンに委ねられてゆく。

こうして1936年の大統領選挙では、ルーズベルトに投票した有権者のうち、82%に当たる350万人が公共事業の施しを受ける格好となった。また、都市部に多い労働組合もアイルランド系イタリア系ユダヤ系と同様、8割方ルーズベルトに投票。結局、10万人以上もの人口を抱える全国106都市では、70%がルーズベルトに投票、他が59%であったのとは対照的な結果となった。

1940年の大統領選挙でも都市部からの支持を受け再選を果たす。北部の人口10万人以上の都市では有権者の60%がルーズベルトに投票、北部のその他の地域では対抗馬のウェンデル・ウィルキーが52%に留まっている[5]

1940年、総力戦への動員が始まると都市は回復。戦争経済により新工場に大量の投資が成され、軍需品生産が絶え間無く続き、工場の門に姿を現した誰にでも仕事が保証される事となる。
終焉

ニューディール連合は様々な理由により、崩壊を余儀無くされた。第一の理由は、ルーズベルトの後継者に相応しい人物がいなかった事である。最も近い人物であるリンドン・ジョンソンをもってしても、その崩壊は免れ得なかった。1960年代に入ると、公民権運動ベトナム戦争アファーマティブ・アクションといった新しい問題や、都市部における大規模な暴動が連合体に楔を打ち込み、多くの人物が去ってゆく。加えて、共和党が減税犯罪抑止を掲げ勝利を重ねたのも大きい。

大都市のマシーンは、オールバニシカゴなど極一部の例外を除き、1940年代に衰微。ほとんどの都市における地元の民主党は、WPAからの支援に大きく依存していたためである。1943年に同局が廃止されると、完全雇用がありながらも、代替となる事業の供給源が絶たれてしまう。その上、第二次世界大戦はWPAや民間資源保存局 (CCC) などが最早要らない程にまで、繁栄の高まりをもたらしてゆく[6]

労働組合は1950年代に規模、勢力とも最高潮に達するも、その後は着実に衰退。21世紀に入っても民主党の主要支持母体ではあるが、少数に留まっているため、影響力を及ぼすには至っていない[7]。知識人も1932年以降民主党を支持してはいるものの、ベトナム戦争に際して新左翼が民主党大統領候補への支持を渋るなど、深刻な分裂が引き起こされてしまう[8]

ヨーロッパ系の民族集団が1960年代以降成人を迎える中、ロナルド・レーガンは労働者階級の多くを社会保守主義へと誘導し、共和党支持に傾かせることに成功(レーガン民主党員)。多くの中産階級は民主党を労働者階級政党として、共和党を上層中産階級政党と見なしていった。

しかしながら、ユダヤ人社会は今だ民主党に大挙して投票。直近の2004年の大統領選挙では74%が同党候補のジョン・ケリーに、2008年の大統領選挙では78%がバラク・オバマにそれぞれ票を入れている[9]


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