ニューディール政策
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ニューディール政策
英: New Deal
左上: 1933年、ニューディール政策の一部であるテネシー川流域開発公社が法律に署名。
右上:ニューディール政策を主導したアメリカ合衆国フランクリン・ルーズベルト大統領。
下部: ニューディール政策の一部である公共事業促進局が雇用した芸術家の1人が描いた壁画。
期間1933年 - 1937年
場所 アメリカ合衆国
原因世界恐慌


大統領 フランクリン・ルーズベルト

秘書 ヘンリー・モーゲンソウ

秘書 ハリー・ホプキンス

秘書 フランシス・パーキンス(英語版)

関係者アメリカ合衆国の社会

ニューディール政策(ニューディールせいさく、: New Deal)は、1930年代にアメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルト世界恐慌を克服するために行った一連の経済政策である。

新規まき直し政策[注 1]や、単にニューディールとも呼ばれる[注 2]
概要

ニューディール政策はそれまでアメリカの歴代政権が取ってきた、市場への政府の介入も経済政策も限定的にとどめる古典的な自由主義的経済政策から、政府が市場経済に積極的に関与する国家資本主義的政策へと転換したものであり[1]第二次世界大戦後の資本主義国の経済政策に大きな影響を与えた。

「世界で初めてジョン・メイナード・ケインズの理論を取り入れた」と言われるが、彼の著書『雇用、利子および貨幣の一般理論』は1936年に出版されており、ニューディール政策が開始された1933年よりも後である。原案は、いち早く世界大恐慌から脱した日本の高橋是清が考案した政策(時局匡救事業)と大半の部分で共通している。

「ニューディール(New Deal)」という政策名は、マーク・トウェイン1889年に発表した小説『アーサー王宮廷のコネチカット・ヤンキー』において主人公が実施した政策にちなんでいる[2]
経緯

ルーズベルトは大統領就任前のラジオでの選挙演説で「大統領に就任したら、1年以内に恐慌前の物価水準に戻す」と宣言した[3]

ルーズベルトは1933年3月4日に大統領に就任すると、翌日には日曜日にもかかわらず「対敵通商法」に基づき国内の全銀行を休業させ、ラジオ演説で1週間以内に全ての銀行の経営実態を調査させ預金の安全を保障することを約束し、銀行の取り付け騒ぎは収束の方向に向かった。ルーズベルトは1933年に大統領に就任後、ただちに大胆な金融緩和を行ったため信用収縮が止まっている[4]

ルーズベルトは、次に述べる100日間の直後にグラス・スティーガル法を制定して、この約束を果たした(連邦預金保険公社の設立と銀証分離[5])。

更に連邦議会に働きかけて、矢継ぎ早に景気回復や雇用確保の新政策を審議させ、最初の100日間でこれらを制定させた[注 3]TVAの公共事業に従事する労働者

緊急銀行救済法

TVA(テネシー川流域開発公社)などによる右写真のような公共事業

CCC(市民保全部隊)による大規模雇用

NIRA(全国産業復興法)による労働時間の短縮や最低賃金の確保

AAA(農業調整法)による生産量の調整

ワグナー法(全国労働関係法)による労働者の権利拡大

さらに1935年には第二次ニューディールとして、失業者への手当給付・生活保護から失業者の雇用へという転換を行い、WPA(公共事業促進局)を設立し、失業者の大量雇用と公共施設建設や公共事業を全米に広げた。

対外的には保護貿易から自由貿易に転じ、大統領権限による関税率の変更や外国と互恵通商協定を締結する権限が議会で承認された。変わったプロジェクトとしては公共事業促進局の実施する対数表プロジェクト (Mathematical Tables Project) があり、同プロジェクトにおいて対数表の精度向上の試みが行われた。これは弾道計算や近似計算の精度向上に寄与し、第二次世界大戦時の米軍の着弾命中精度の向上やマンハッタン計画における爆縮レンズZND理論)に影響を与えた。
政策に対する賛否米国の実質GDP(1910-1960年)、赤色強調は大恐慌時代 (1929?1939)米国の失業率(1910-1960年)、赤色強調は大恐慌時代 (1929?1939)、1939年以前は推定値

これらの政策によって経済は1933年を底辺として1934年以後は回復傾向になったが[6][7]、NIRAやAAAといった政策のいくつかが最高裁で「公正競争を阻害する」とする違憲判決を出された[8]。さらに、積極財政によるインフレ傾向および政府債務の増大を受け、財政政策金融政策の引き締めを行った結果、1937-1938年には失業率が一時的に再上昇する結果となった[9]。その後、1941年12月に第二次世界大戦に参戦したことによる、アメリカ合衆国史上最大の増大率となる軍需歳出の増大により、アメリカ合衆国の経済と雇用は恐慌から完全に立ち直り著しく拡大した。

結局、名目GDPは1929年の値を1941年に上回り[6]、実質GDPは1929年の値を1936年に上回り[7]、失業率は1929年の値を1943年に下回る、という経過をたどった[10][11]

ニューディール政策以後のアメリカ合衆国では、連邦政府の歳出やGDPに対する比率が増大し[12]、連邦政府が強大な権限を持って全米の公共事業や雇用政策を動かすこととなり、さらに第二次世界大戦により連邦政府の権力強化や巨大化が加速し、アメリカ合衆国の社会保障政策を普及させた。

ミルトン・フリードマンは「1929-1933年と1933-1941年の期間は別に考えるべきである。大恐慌ではなく大収縮を終わらせたのは、銀行休日、金本位制からの離脱、金・銀の購入計画などの一連の金融政策であったのは間違いない。大恐慌を終わらせたのは、第二次世界大戦と軍事支出である」と指摘している[13]

宇沢弘文は「結局は、ニューディール政策がどういう結果・成果をもたらしたかが分かる前に第二次世界大戦に突入してしまった」と述べている[14]。また宇沢は「フリードマンが中心となって、ニューディール政策のすべてを否定する運動が展開された。ロナルド・レーガン政権の頃にはニューディール政策は完全に否定された」と述べられている[15]

経済学者の矢野浩一は「ニューディールは、『財政政策による効果が大きかった』と考えられてきたが、その後の研究で『金融政策・財政政策を組み合わせた政策パッケージ(ポリシーミックス)に効果があった』」と理解されるようになった」と指摘している[16]


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