ニューサウスグリーンランド
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モレルの報告した「ニューサウスグリーンランド」の位置(1823年、赤線)、ジェイムズ・クラーク・ロスの報告した「ロスの出現」(1843年)、ジョンソン船長が航海した地域(1821年、点線)

ニューサウスグリーンランド(: New South Greenland、モレルの陸地と呼ばれることもある)は、1823年3月、アメリカスクーナー「ワスプ」のベンジャミン・モレル船長が南極ウェッデル海アザラシ漁と探検のための航海中に記録した幻の陸地である。モレルは300マイル (480 km) 以上にわたって航海したと主張する海岸線の正確な座標と描写を与えていた。ウェッデル海の地域はそれまで訪れることも稀であり、氷の状態によっては航海も難しかったので、その後は陸地の適切な調査も行われないままであり、20世紀初期の南極探検時代になってその存在は決定的に否定された。

モレルが航海したとき、ウェッデル海や周辺の海岸も無名であり、その地形はほとんど分かっていなかったので、陸地を見たという証言はもっともらしく見えた。しかし、モレルの航海記録にある明らかな誤りと、概してほら吹きだという評判が、この新しい陸地の存在について疑惑を生むことになった。1912年6月、ドイツの探検家、ヴィルヘルム・フィルヒナーが、その探検船「ドイチラント」がウェッデル海で氷に捉えられ、漂流してモレルの記録した場所まで来た後、この陸地を探したが、その形跡は見つからなかった。その海域の水深を測っても5,000フィート (1,500 m) 以上あり、近辺には陸地が無いことが分かった。その3年後、アーネスト・シャクルトンはその探検船「エンデュアランス」が同じ海域で氷に捉われ、同様な方法で陸地が存在しないことを確認した。

モレルの誤りについて、意図的な偽証など、様々な説明が提案された。しかし、モレルがその発見を簡潔かつありのままに叙述していることは、その発見から個人的な功績や栄誉を求めていないことは明らかである。その叙述においてアザラシ漁仲間の船長ロバート・ジョンソンが、その2年前に陸地を見つけて命名したという栄誉を渡している。船の位置を誤って計算した、あるいは9年後に記録を残す時に詳細をうろ覚えであったことで、モレルがそれと知らずに誤りを犯したかもしれない。あるいは、遠くの氷山を陸地だと見るよくある誤りを犯したか、南極蜃気楼の効果で判断を誤った可能性もある。1843年、著名なイギリスの海洋探検家ジェイムズ・クラーク・ロスが、モレルの報告した場所に近く、陸地の可能性を報告した。しかしこれも最終的には存在しないことが証明された。
「ワスプ」の航海 1822年?1823年
第一段階 1822年6月から1823年3月

19世紀初期南極の地理はほとんど全て知られていなかったが、時として陸地を見たという証言が記録されていた[1]。1822年、前年にサウスサンドウィッチ諸島に航海していたベンジャミン・モレルが[2]、南極海および南太平洋でアザラシ漁、交易、探検を行う2年間の航海のためにスクーナー「ワスプ」の指揮官に指名された[3]。モレルはアザラシ漁という任務に加えて、「新しい発見を行う裁量権限」を持っていた[3]。モレルはこの裁量権を使って南極海を探査し「南極点に行き着く実行可能性を確認する」ことを提案した[3]。この航海はその後の8年間の大半でモレルを海に出たままにする4回におよぶ航海の初めのものであったが、南極を訪れたのは最初の航海のみになった[4]

「ワスプ」は1822年6月22日にニューヨーク港を出港して南に向かった。10月下旬にフォークランド諸島に到着し、存在しないオーロラ諸島を探して無益に16日間を使った後[5][6]、サウスジョージア島に向かい、11月20日に停泊した。モレルの証言に拠れば、サウスジョージア島の海岸線から南西に約60マイル (97 km) の外海に停泊したと記録しており、それは間違いだった[6]。「ワスプ」はその後アザラシ漁のために東に向かい、モレルに拠れば、12月6日には遠隔のブーベ島に到着しており、この孤島を特に問題もなく見つけていた。歴史家のH・R・ミルは、モレルのこの島の物理的外観に関する記述には、この島の最もはっきりと1つしかないもの、すなわち永久氷の層で覆われているということが書かれていないと述べている[7][8]。モレルはその後船を南に進めようとしたが、南緯60度付近で厚い氷に当たったので北東のケルゲレン諸島に向かい、12月31日にそこで停泊した[6][8]ブーベ島、モレルは1822年12月6日に到着したと主張していた

「ワスプ」は数日間の探検と、利益になるアザラシ漁を行った後、1823年1月11日にケルゲレン諸島を発ち、南と東に向かって、2月1日には最東端となる南緯64度52分東経118度27分を記録した[9][10]。この地点から、モレル自身の証言に拠れば、強い東寄りの風を利用することに決め、西のグリニッジ子午線まで急速に戻ることができた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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