ニューグレンジ(英語: Newgrange、アイルランド語: Si an Bhru)は、アイルランド・ミース県のブルー・ナ・ボーニャ遺跡群にある羨道墳の1つ。世界的にも有名な先史時代の遺跡の1つであり、アイルランド島で最も有名な先史時代の遺跡である。1年で最も日が短い冬至の明け方、太陽光が長い羨道に真っ直ぐ入射し、部屋の床を短時間だけ照らすように建設されている[1]。 本来のニューグレンジは、紀元前3100年から紀元前2900年の間に建設された[2]。つまり約5000年前のものである。放射性炭素年代測定によれば[3]、エジプトのギザの大ピラミッドよりも500年ほど古く、ストーンヘンジよりも約1000年先行している。 新石器時代には、ニューグレンジが何らかの儀式に使われ続けたと見られている。新たな記念碑として、中央の塚の南東の環状木柱列
歴史
塚の南側と西側の周辺に粘土の同心円状の塚が建設され、それ以前にあった柱(一部、燃えた跡がある)と溝の2本の平行線から成る構造を覆っている。塚を取り巻くように、大きな石を環状に並べた構造が建設されている。入り口付近には17カ所で火を灯した跡がある。ニューグレンジのこのような構造はブルー・ナ・ボーニャのいくつかのヘンジ(Newgrange Site A、Newgrange Site O、Dowth Henge、Monknewtown Henge)と共通である。
発掘と復元1905年に撮影されたニューグレンジの入り口部分
ニューグレンジとその秘密は塚が崩れたため、五千年近くにわたって土中に秘匿されていた。1142年、この地はシトー派のメリフォント修道院の所有する農地の一部となった。この農地は 'granges' (「農場」の意)と呼ばれた。1378年には 'the new grange' がそのまま地名となった。1688年の名誉革命の際にこの土地が没収され、チャールズ・キャンベルが新たな領主となった。1699年夏、キャンベルの使用人たちが建材用の石を探していて遺跡を発見した。彼らが最初に発見したのは、入り口にあった彫刻が施された石である。間もなく彼らは洞窟と思われるものを発見したが、さらなる調査でそれが大きな部屋に通じる人工の長く狭い通路であることが判明した。使用人たちがキャンベルにその発見を知らせると、キャンベルはウェールズの好古家で博物学者・言語学者のエドワード・ルイドに連絡した。ルイドが調査を行ったため、一般にルイドが発見者といわれるようになる。2体の人骨を発見したという「主張」により、この塚は墓だと確信されるようになった。この塚を墓とすることに最初に疑問を呈したのは、英国第10歩兵連隊所属の陸軍士官で測量技師のチャールズ・ヴァレンシー(アイルランド名 Cathal Uabhallansi)だった[4]。彼はこの巨石を使った塚が墓所というよりも天文学に関連した施設だと信じていたが、当時は嘲笑されるだけだった。1983年、マルチン・ブレナンは著書 The Stars and the Stones: Ancient Art and Astronomy in Ireland[5] [6]で、この塚が墓所だという説がまやかしであることを詳細に論破した。
ユニバーシティ・カレッジ・コーク考古学科の Michael J. O'Kelly 教授の指揮で、1962年から1975年までニューグレンジの発掘と復元を実施した[7]。石と芝生で覆われた塚であり、97個の大きな縁石で囲まれ、そこに白い珪岩と花崗岩でできた内側にやや傾斜した高い壁がある。