ニューギニアの戦い
[Wikipedia|▼Menu]

ニューギニア島ブナの日本軍を攻撃する連合軍のM3戦車。1943年1月2日ウェワクを空襲するB-25。1943年8月13日放棄された綾戸山丸。1942年7月22日、ゴナで揚陸作業中に航空攻撃を受け被弾炎上した

ニューギニアの戦い(ニューギニアのたたかい, New Guinea Campaign)は、第二次世界大戦中期以降、ニューギニア戦線において、日本軍連合国軍との間で行われた一連の戦闘である。戦闘が非常に悲惨だったことでも知られ「ジャワは天国、ビルマは地獄、死んでも帰れぬニューギニア」とまで言われた[1]
概要

太平洋戦争開始後間もない1942年1月、日本の大本営は「ニューギニアおよびソロモン群島の要地の攻略を企画する」と決定し、ニューギニアについては「ラエサラモア攻略後なしうればポートモレスビーを攻略する」とした[2]。この決定により1942年3月8日、日本軍は東部ニューギニアのラエ、サラモアに上陸し占領した。これがニューギニアの戦いの始まりであり、ダグラス・マッカーサー大将が率いる連合軍との間で1945年8月15日の終戦まで戦いが続けられた。連合軍の優勢な戦力の前に日本軍は次第に制海権制空権を失って補給が途絶し、将兵は飢餓や過酷な自然環境とも戦わねばならなかった。ニューギニアに上陸した20万名の日本軍将兵のうち、生還者は2万名に過ぎなかった。また台湾高砂族による高砂義勇兵朝鮮志願兵チャンドラ・ボース支援のインド兵やインドネシア人兵補も戦闘に参加している。
背景

ニューギニア島は、日本から真南に5,000キロ、オーストラリアの北側に位置する熱帯の島である。面積は77万平方キロと日本の約2倍の広さであり、島としてはグリーンランドに次いで世界で2番目に大きい。脊梁山脈には4,000メートルから5,000メートル級の高山が連なり、熱帯にありながら万年雪を頂いている。19世紀の帝国主義の時代、ニューギニア島は西半分がオランダ領、東半分の北側がドイツ領、南側がイギリス領に分割された。その後1901年のオーストラリア独立に伴って旧イギリス領はオーストラリア領となり、第一次世界大戦後は旧ドイツ領がオーストラリア委任統治ニューギニアとなった。1942年当時、ニューギニア全島のほとんどは熱帯雨林と湿地帯によって占められ、人口密度は1平方キロあたり2人以下で人口調査ができないほどの未開の地であった。沿岸部にはポートモレスビー(南東岸に位置)などの小都市が存在したが、山間部には狩猟・採集や、サゴヤシ澱粉質である「サクサク」の採取、類の畑作などによって生活する原住民が居住していた。

太平洋戦争が開始されると、日本軍はトラック諸島の海軍基地を防衛する必要からニューブリテン島ラバウルを攻略し前進拠点とした。しかしラバウルはオーストラリア領ニューギニアの中心拠点ポートモレスビーの基地から爆撃圏内にあった。日本軍はラバウルの防衛と米豪遮断作戦を視野に入れてポートモレスビーの重要性を認識し、海路からの上陸作戦を計画した。作戦は「MO作戦」と名づけられ、ニューギニア島の北岸のラエサラモアには前進航空基地の設営が計画された。

連合国軍にとっても、ポートモレスビーはオーストラリア本土の最後の防衛線であり、絶対に守り抜かねばならない拠点であった。また、フィリピンから脱出してオーストラリアに拠点を置いていたダグラス・マッカーサー大将にとっては、オーストラリアからニューギニア島北岸を経由するルートは、フィリピンを奪還し東京へと至る対日反攻ルートの起点でもあった。1942年3月8日、日本軍がラエとサラモアへ上陸してニューギニアにおける本格的な戦端が開かれた。
戦場の環境
自然環境今日に伝わるパプアニューギニアの伝統文化

ニューギニアにおける戦いは過酷な自然環境との戦いでもあった。日本兵の死因の多くは直接の戦闘によるものでなく、マラリアアメーバ赤痢デング熱腸チフスなどの熱帯性の感染症と飢餓による栄養失調と餓死であった。戦時中に日本で上映されたニュース映画『日本ニュース』の中ではニューギニアの自然環境を「千古斧鉞(せんこふえつ)を知らざる樹海(第194号)」「瘴癘(しょうれい)の暗黒地帯(第203号)」「悪疫瘴癘(しょうれい)の蛮地(第210号)」と述べている。自然環境との戦いには連合軍も苦しめられ、マラリアを媒介するハマダラカの駆除にDDTが活用された[3]。ジャングルにおける行軍では方向感覚を失った部隊が同じところを回ることが少なくなかった。これは人間が左へ、左へと進む習性を持つためであり、誘導員か方位磁石(日本軍一般兵士には支給されていない)が不可欠であった。また、ワニなどの動物に食べられる者もいた。
原地民

ニューギニアの原住民は日本軍と連合軍の双方から過酷な仕事を命じられながら忠実に物資の輸送や道案内を行い、負傷者の面倒見に一役買った。また、両軍のスパイ民兵として活躍する者もいた。中には逃亡する現地人もいたものの、日本軍から「まじめで忠実」と賞賛され、連合軍からも黒い天使(Fuzzy Wuzzy Angels)と呼ばれた。ただし、現地人は食料よりタバコを欲しがるということで、日本軍では訓練された台湾の高砂族(詳細は高砂義勇隊を参照)に対する評価の方が高いケースもある。

戦争末期に日本軍が分散自活の体制に入ると、原住民の中には連合軍と通じて日本兵を襲撃する者も現れた。ジャングルでの行動に慣れた原住民に対して、衰弱し少人数に分散した日本兵はなすすべもなかった。一方で、食糧採取などにおける原住民の協力なしには、日本兵の多くは生きながらえることはできなかったであろうことも事実である。
兵士の生活
日本側
兵糧について

物資と補給能力が乏しかった日本軍では、短期決戦を重要視した戦略の基本だったため、食料などの物資の補給は、もっぱら現地調達だった。しかし、日中戦争と違い、人家が少なく、ジャングルが広がる南方戦線では、食料を徴発することもできず、獲得するのに苦労した。ニューギニア戦線での各部隊の任務としては通常の兵隊業務に加え、耕作や食料採取が任務となっていた。ごく短い期間のみ戦闘携帯食(陣中餅、乾麺包、砂糖、内容240グラムサイズの魚および牛の缶詰、麦飯、粉醤油、粉味噌などの即席食品類など)を主として、補給がされないまま少量のコメ、さご椰子澱粉(幹から採取する。『サクサク』という)、タロイモなどのイモ類、椰子の実バナナの果実類は言うに及ばず雑草を糧とし、他にヤモリトカゲコウモリワニノネズミヘビイボガエルモグラノブタなどの動物、ゲンゴロウ、トンボなどの昆虫を採取していた。特にヘビ(刺し身串焼きなど)、ワニ(鉄板焼き)、イボガエル(スープ肉フライなど)、ノネズミ(丸焼き)、ノブタ(丸焼き)などは希に採取される機会がありスタミナ食として珍重されたという。戦闘末期、海上封鎖によって、物資の補給が途絶えると完全に自給自足の生活を余儀なくされた。また、地域や部隊によっては、人肉食や個人的な原住民の交流などから真水や食料の取得方法を教えてもらうケースもあった。
連合国軍側
兵糧について

米軍では、主に戦闘食(レーション)を生産し、利用した。缶詰ヴァリエーションは豊富で、肉類をはじめ、飲み水の缶詰まであり、ジャングルでの潜伏戦闘では特に重宝された。南方戦線では、補給線が短く、食料などの物資は、船舶や航空機によって小まめに供給された。また、家畜なども空輸されることもあり、キャンプの近くでは、放牧が営まれ、新鮮な肉を得ることが可能だった。食事は、調理班が調理をし、慰問クリスマスの日などの特別な時は、ケーキなども振舞われた。
参加兵力

ニューギニアの戦いに参加した両軍の部隊を列挙する。参加部隊には入れ替わりがあり、同時期に全部が揃ったわけではない。
日本軍

安達二十三中将シドニーへ到着し、オーストラリア首相ジョン・カーティンと面会するダグラス・マッカーサー。1942年3月


第17軍(一部が参加) - 司令官:百武晴吉中将


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:172 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef