ニュルンベルク裁判
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この項目では、実際の裁判について説明しています。1961年の映画については「ニュールンベルグ裁判」を、2000年のドラマについては「ニュルンベルク軍事裁判」をご覧ください。
ニュルンベルク裁判の被告席(前列奥からヘルマン・ゲーリングルドルフ・ヘスヨアヒム・フォン・リッベントロップヴィルヘルム・カイテル、後列奥からカール・デーニッツエーリヒ・レーダーバルドゥール・フォン・シーラッハフリッツ・ザウケルニュルンベルク裁判の被告席(後列手前から、デーニッツ、レーダー、シーラッハ、ザウケル、アルフレート・ヨードルフランツ・フォン・パーペンアルトゥール・ザイス=インクヴァルトアルベルト・シュペーアコンスタンティン・フォン・ノイラートハンス・フリッチェ。 前列手前から、ゲーリング、ヘス、リッベントロップ、カイテル、エルンスト・カルテンブルンナーアルフレート・ローゼンベルクハンス・フランクヴィルヘルム・フリックユリウス・シュトライヒャーヴァルター・フンクヒャルマル・シャハト

ニュルンベルク国際軍事裁判(ニュルンベルクこくさいぐんじさいばん)は、第二次世界大戦において連合国によって行われたナチス・ドイツ戦争犯罪を裁く国際軍事裁判である(1945年11月20日 - 1946年10月1日)。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の党大会開催地であるニュルンベルクで開かれた。日本極東国際軍事裁判(東京裁判)と並ぶ二大国際軍事裁判の一つ。

最初の主な裁判(英語:Trial of the Major War Criminals Before the International Military Tribunal, IMT)と、それに続く、ニュルンベルクを占領統治していたアメリカ合衆国による12の裁判(英語:Nuremberg Military Tribunals, NMT. 1949年4月14日まで行われ、一般には「ニュルンベルク継続裁判」として、最初の主な裁判とは区別される)で構成された。
前史
戦前の認識「平和に対する罪」および「人道に対する罪」も参照

いわゆる「人道に対する罪」という言葉の淵源は1909年のハーグ陸戦条約に見られるが、用語として成立したのは戦後になってからだった[1][要文献特定詳細情報]。第一次世界大戦後の1919年1月、連合国は、国家元首をも含む戦争開始者の責任を裁く国際法廷の設置について討議を行った。この方針は採択されなかったものの、ヴェルサイユ条約に前ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世を国際条約の信義に背いたとして国際法廷で裁くという条項に反映された。しかしヴィルヘルム2世の裁判は実現せず、またドイツの戦争犯罪容疑者を国際法廷で裁くこともドイツ側の拒否にあい、ライプツィヒ戦争犯罪裁判(英語版)として行われたドイツ国内の戦犯裁判は、ほとんど形式的なものに過ぎなかった。

また、オスマン帝国アルメニア人虐殺に対しては、連合国側の15人委員会が「人道に対する罪」として取り上げようとした際、アメリカおよび日本は「これを認めれば、国家元首が敵国の裁判にかけられることになる」として反対した。またアメリカは国際法廷の設置そのものに前例がないとして反対した[2]。その後も国際法廷に関する協議は行われていたが、明確な条約は締結されなかった[3]
連合国の戦犯裁判方針の形成

第二次世界大戦勃発直後から、連合国間ではドイツによる前例のない残虐行為を非難する声が高まっていた。1940年11月にはポーランド亡命政府チェコスロバキア亡命政府が、ドイツの占領下にある両国の領域における残虐行為は、史上例がないと非難した共同宣言を発表した[4]。1941年10月25日にはアメリカ合衆国のフランクリン・ルーズベルト大統領とイギリスのウィンストン・チャーチル首相がそれぞれドイツの残虐行為を非難する声明を発表し、特にチャーチルは「これら犯罪の懲罰は、今や主要な戦争目的の一つ」であるとした[4]。11月5日にはソビエト連邦のヴャチェスラフ・モロトフ外相も同様の発言を行い、英米と歩調を合わせた[4]

1942年1月13日にはセント・ジェームズ宮殿に集まったベルギールクセンブルクチェコスロバキアポーランドギリシャオランダノルウェーの各亡命政府代表と自由フランス代表が「組織された裁判の手続きにより」、市民に対する残虐犯罪を犯したもの達を処罰することを、「主要な戦争目的の中に入れる」ことを決議した[5]。オブザーバーとして参加していた中華民国の代表もこの原則に同意し、この方針を中国大陸に存在する日本軍にも適用する意志を示した[6]。またソビエト連邦もこの方針に同意した[6]。イギリスは戦犯裁判に当初乗り気ではなかったが、これらの国々の突き上げによって戦犯裁判について検討せざるを得なくなった。また、日本の占領によってイギリスの軍民が被害を受けているという報告が多く寄せられ始めたことも背景にあった[7]。6月にはチャーチルが連合国戦争犯罪捜査委員会の設置をアメリカに示唆し、7月には閣議でこの方針を承認するとともに、戦争犯罪人の扱いに関する内閣委員会を設置することを決定した[6]。 この討議では、外相アンソニー・イーデン大法官ジョン・サイモン(英語版)が国際法廷による裁判に反対意見を表明している[6]

1942年10月7日、ルーズベルト大統領とサイモン大法官はそれぞれ、連合国戦争犯罪捜査委員会の設置と、戦犯裁判のためのあらゆる証拠を収集することを表明した[6]


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