ニュルンベルク法
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ニュルンベルク法(ニュルンベルクほう、:Nurnberger Gesetze)または、ニュルンベルク人種法(俗称)は1935年9月15日国家社会主義ドイツ労働者党(以下ナチ党)政権下のドイツにおいて制定された2つの法律「ドイツ人の血と名誉を守るための法律」(Gesetz zum Schutze des deutschen Blutes und der deutschen Ehre)と「帝国市民法」(de:Reichsburgergesetz)の総称である[1][2][3][4]ユダヤ人から公民権を奪い取った法律として名高い[2][4]

なお、これらの法律が「ニュルンベルク法」と総称されたのは、制定当時ニュルンベルクナチ党党大会が開かれており、特例でそこに国会が召集されて制定された法律であったことによる[1][2]
ニュルンベルク法制定までの経緯
「職業官吏再建法暫定施行令」の「アーリア条項」

1933年4月7日、「職業官吏再建法(ドイツ語版)」が制定された。これは「非アーリア人種」(同法3条)や「政治的に信用のできない者」(同法4条)を公務員から追放することによって公務員数を削減する趣旨(同法6条)の法律だった[5]。「政治的に信用のできない者」が左翼、「非アーリア人種」がユダヤ人を指していることは明らかだったが、この法律は肝心の非アーリア人種(ユダヤ人)の定義をしていなかった[6]。したがってユダヤ人とは何かが問題となった。

これについてヒトラー内閣内務大臣ヴィルヘルム・フリックは、「ユダヤ人とは『宗教』ではなく、『血統』『人種』『血』が決定的要素であり、ユダヤ教徒でない者にも『ユダヤ人性』を追及しうる」と述べ[7]、4月11日に「職業官吏再建法暫定施行令」を出した[6]。この法令により「非アーリア人種」とはユダヤ人の事であると明言され、両親・祖父母のうち誰か一人でもユダヤ教徒であれば、その当人の信仰が何であれ(あるいは無神論者であれ)、すべてユダヤ人となると定めた[6][8]。このユダヤ人の定義付けは「アーリア条項」と呼ばれた[8]。その後、様々な反ユダヤ主義立法が行われ、各分野でユダヤ人の追放が行われたが、そのユダヤ人の定義はこの「アーリア条項」に基づいて行われた[9]

この条項を聞いた日本などの諸外国は、人種差別であるとしてドイツに不快感を表している[8]
「アーリア条項」の修正

しかし完全ユダヤ人、第一級ユダヤ人混血(ハーフ・ユダヤ人)、第二級ユダヤ人混血(クォーター・ユダヤ人)を合わせると150万人近くになり(1937年ドイツ内務省調査)[10]、これほどの人間をドイツ社会から完全に排除してしまうことは問題が多かった[11]

特に困るのがドイツ国防軍の兵役の問題であった。国防軍は1934年2月28日に「アーリア条項」を受け入れたが、1935年3月16日にヴェルサイユ条約破棄と徴兵制の復活が宣言されると、150万人ものユダヤ人とユダヤ人混血を兵役対象外にしてしまうことに難色を示した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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