ニュルンベルクのマイスタージンガー
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『ニュルンベルクのマイスタージンガー』(: Die Meistersinger von Nurnberg)は、19世紀ドイツの作曲家リヒャルト・ワーグナーが作曲した楽劇である。ワーグナーの楽劇の中では唯一の喜劇である[1]リブレットも作曲者自身による。
概要

音楽・音声外部リンク
全曲を試聴する
[1]
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮バイロイト祝祭管弦楽団&Chor.他(1951年)]
[2] ヨーゼフ・カイルベルト指揮バイロイト祝祭Orch.&Chor.他]
[3] ダニエル・バレンボイム指揮バイロイト祝祭Orch.&Chor.他]
[4] ベルナルト・ハイティンク指揮ロイヤル・オペラ・ハウスOrch.&Chor.他]
以上演奏4本何れもYouTubeアートトラック公式収集による《プレイリスト》。
第1幕・第2幕・第3幕
ラファエル・フリューベック・デ・ブルゴス指揮ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団&合唱団他による演奏。EuroArts公式YouTube。

16世紀中ごろのニュルンベルクを舞台としており、全3幕、15場からなる。上演時間は約4時間20分(第1幕:80分、第2幕:60分、第3幕:120分)[1]。初期のオペラ恋愛禁制』(1836年完成)を除けば、ワーグナーの作品中唯一の喜劇である[2]

ワーグナーのドレスデン時代である1845年に完成・初演された歌劇『タンホイザー』と対をなす喜劇的作品として着想され[1][3]、草稿が書かれたが、本格的な台本執筆はウィーンに在住していた1861年であり、翌1862年から作曲、1867年の完成まで20年余りを要した。この間にワーグナーは、『ニーベルングの指環』四部作に着手しており、その第三部に当たる『ジークフリート』の作曲を中断(1857年8月)して『トリスタンとイゾルデ』(1859年)を完成させ、つづいて本作が完成した。1868年6月21日、ミュンヘンバイエルン宮廷歌劇場ハンス・フォン・ビューロー指揮により初演された。

物語は、人間芸術の価値を輝かしく肯定するとともに、天才が得た霊感を形式の枠の中で鍛え上げる必要性を説いた寓話にもなっている。その豊かで鋭い洞察と暖かな人間性によって、本作品は幅広い人気を保っている一方、当時のワーグナーの思想である「ドイツ精神」の復興とともに反ユダヤ主義が織り込まれており、底に潜む暗い部分として疑問が投げかけられてもいる[4]

なお、マイスタージンガーとは、職人の親方が音楽芸術の分野で作詞、作曲、歌唱を兼ねるもので、日本語では「親方歌手」あるいは「職匠歌手」となり、「名歌手」という訳は誤りである。また、ドイツ語のタイトル Die Meistersinger は複数形であり、主人公と見なされるハンス・ザックス一人ではなく「マイスタージンガーたち」を指す[5]
作曲の経緯
ニュルンベルクでの原体験

1835年7月、マクデブルクの劇場と契約を結んだワーグナーは歌手集めの旅でニュルンベルクを訪れた。このとき、酒場で歌自慢の指物師の親方が満座の笑いものにされる場面に居合わせた。そしてその直後、些細なきっかけから起こった騒ぎが高じてあわや暴動になるかと思われたが、鉄拳の一撃を合図に潮が引くように静まる様子を目撃した。これらの体験は、本作でベックメッサーが歌いそこねて恥をさらす場面(第3幕第5場)及び群衆による「殴り合いの場」(第2幕第7場)に投影されている[6]

また、『恋愛禁制』(1836年完成)の後、ワーグナーは1838年にジングシュピール風喜歌劇『女の浅知恵に勝る男の知恵(別題:幸福な熊の一家)』を構想するも未完に終わり、以来オペラ・コミックともヴォードヴィルとも異なる喜劇のスタイルを模索していた[7]
第1散文稿マリーエンバート(マリアーンスケー・ラーズニェ)の保養地

1845年4月、歌劇タンホイザー』を完成させたワーグナーは、夏の保養のためにマリーエンバート(現チェコマリアーンスケー・ラーズニェ)に滞在する。自伝『わが生涯』によれば、この地でゲオルク・ゴットフリート・ゲルヴィヌスde:Georg Gottfried Gervinusの『ドイツ国民文学の歴史』(1835年-1842年)を読みふけり、「その短い記事からハンス・ザックスを含むニュルンベルクのマイスタージンガーたちの姿がひときわ鮮やかに眼前に浮かび上がった」とする。ヤーコプ・グリムの『古いドイツのマイスター歌について』(1811年)にも興趣をそそられたワーグナーが、7月16日、「3幕の喜歌劇」として一気に書き上げたのが、第1散文稿(A)である[6]

この時点では「軽い喜劇」であり[2][8]、ワーグナーの『友人たちへの伝言』(1851年)によれば、当時の構想は「古代アテナイにおいて、悲劇の後に陽気なサテュロス劇が上演されたように、『ヴァルトブルクの歌合戦』(『タンホイザー』のこと)に真に続きうる喜劇」というものだった。しかしこの計画は、1845年夏に着想した歌劇『ローエングリン』(1848年完成)に本格的に取り組んだことにより、立ち消えとなる。さらに、ワーグナーがドレスデン革命に連座して国外亡命の身となったことで、喜劇の構想そのものからも遠ざかった。この後、ワーグナーが1861年に『ニュルンベルクのマイスタージンガー』に再び取り組むまでには十余年の歳月を要した[7]

第1散文稿(A)では、登場人物はザックス、ダフィト、マクダレーネ以外は固有名がついておらず、ヴァルターは「若者」、ベックメッサーは「記録係」などとされていた。ザックスの「ニワトコのモノローグ」(第2幕第3場)と「迷妄のモノローグ」(第3幕第1場)はまだなく、第3幕で若者(ヴァルター)の「偉大な皇帝たちを讃える歌」を読んだザックスは、「美しい詩芸術が終わりを告げ」、自分が「最後の詩人」となる運命を嘆き、再びザックスの真価が認められる日を期して、「城に引きこもり、ウルリヒ・フォン・フッテンマルティン・ルターの書物を研究する」よう若者に勧めるという内容になっている[7]

記録係(ベックメッサー)がザックスの詩を盗む場面は次の2案が並記されていた。

A案:記録係は机上のメモをポケットに入れるものの、これを使うにはザックスの同意が必要と考え、盗みを告白した上で歌詞を譲ってもらう。

B案:記録係は昨夜の騒ぎでぶち壊しにされた歌の代わりをザックスに要求、情にほだされたザックスは、若いころに作っていた詩を提供する[9]

『友人たちへの伝言』では、ザックスが「若き騎士が作った詩を―出所不明と偽って」記録係に渡すという設定になり、陰謀性が現れている。第2草稿以降は、現スコアと同じ筋立てとなるが、ザックスが「求婚レース」に立候補する意志を持っている「証拠」としてベックメッサーがメモを突きつける、という展開は韻文台本からである。

また、最終ページに残された「神聖ローマ帝国が煙と消えようとも/ドイツの神聖な芸術は残るであろう」というザックスの最終演説部分は、この箇所のみ鉛筆で書き込まれており、ドイツ書体であることから、第1散文稿を書き上げた後、ワーグナーがラテン書体に切り替えた1848年12月以前の記入と推定される(詳細は#ザックスの最終演説についてを参照のこと。)[7]
ヴェネツィア旅行22歳ごろのマティルデ・ヴェーゼンドンクの肖像画(1850年)

『わが生涯』によれば、ワーグナーはチューリヒ時代(1849年 - 1858年)のパトロン、オットー・ヴェーゼンドンク、マティルデ・ヴェーゼンドンク夫妻の招待により、1861年11月7日から11日にかけてヴェネツィアに旅した。アカデミア美術館ティツィアーノの絵画「聖母昇天図(Assumpta)」を見たことで、「かつての気力がまた身内に燃え上がるのを感じ―『マイスタージンガー』を仕上げようと心に決めた」とされている。

「ラ・スペツィアの幻影」(『ラインの黄金』序奏)や「聖金曜日の奇蹟」(『パルジファル』)など、ワーグナーには作品の端緒を創作神話のように語る傾向があり、この回想についても同様の韜晦である可能性がある。事実、ワーグナーはヴェネツィア旅行に先立つ8月9日-10日にニュルンベルクを訪れて一泊し、10月30日付で音楽出版社主フランツ・ショットに宛てた手紙では、「できるだけ早く各地の劇場にかかるような―大喜歌劇」を一年以内に完成させると提案していた。これらは、ティツィアーノの絵画を見る以前の段階ですでに心づもりができていたことを示している。

とはいえ、ヴェネツィア旅行には別の側面もあった。チューリヒ時代にワーグナーはマティルデ・ヴェーゼンドンクと恋愛関係にあり(『トリスタンとイゾルデ』を参照のこと。)、かつて想いを断った相手との再会は、もう一度よりを戻す淡い期待を抱かせる機会だった。しかし、到着早々にヴェーゼンドンク夫妻の仲睦まじい姿を見せつけられたワーグナーは、かなわぬ愛に終止符を打つ決心をする。ワーグナーはマティルデとの蜜月時代に彼女に贈っていた第1散文稿(A)の返却を求め、マティルデは12月25日にパリ滞在中のワーグナーに草稿を送り返した。ようやく今、私は完全に諦めました。―私が離れることだけが、思いのまま自由に動く力をあなたに与えるのです。 ? 1861年12月、マティルデに宛てたワーグナーの手紙

ティツィアーノの聖母像は、ワーグナーにとって地上での愛の実現を断念し、芸術によるエロスの昇華をめざす転機になったといえる[7]
第2散文稿 - 第3散文稿

ヴェネツィアからウィーンに戻ったワーグナーは1861年11月14日-18日に第2散文稿(B)を書き上げた。この間に友人ペーター・コルネリウスの協力を得てオーストリア帝室図書館でヨハン・クリストフ・ヴァーゲンザイル(de:Johann Christoph Wagenseil)の『ニュルンベルク年代記』(1697年)から「いにしえの12人のマイスターたち」、「タブラトゥーア」、「誤りと罰則」、「歌唱席」、「マイスターの調べの一覧」(これらについてはマイスタージンガーの項を参照のこと)についての抜き書きを第2散文稿(B)に収めた[7]。また、E.T.A.ホフマンの『樽屋の親方マルティンと徒弟たち』など16世紀ニュルンベルクを題材にした小説や劇作も参考にしている[1]

第3散文稿(C)は第2散文稿(B)を浄書したもので、11月19日にショット社に送られた。12月3日にマインツのショット社で朗読会を開き、草稿を披露したワーグナーはパリに向かった。

第2散文稿(B)ではザックスを取り巻く登場人物名はほとんど現行版と異なっており、マイスターたちの固有名はまだ付けられていない。第3散文稿(C)では娘エファ、乳母マクダレーネの名前が現行版どおりとなるが、若い騎士はコンラート、市書記はファイト・ハンスリヒ、金細工師はトーマス・ボークラーとなっている。

第2散文稿(B)と第3散文稿(C)では大筋に差はないが、第3散文稿(C)には第1幕のボークラー(後のポークナー)の演説や、ザックスの二つのモノローグが加わり、ザックスが書記ハンスリヒ(同ベックメッサー)のセレナーデハンマーを打つことで記録係の技を学ぶという理由付けが加わるなど、現行版に近づいている。ただし、第3幕のコンラート(同ヴァルター)は夢に見た内容を歌う現行版とは異なり、眠れぬ夜に気持ちを鎮めるために作曲したことになっている[7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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