ニハーヴァンドの戦い
イスラーム教徒のペルシア征服中
戦争:イスラーム教徒のペルシア征服
年月日:642年
場所:ニハーヴァンド(現在のイランのハマダーン州)
結果:アラブ軍の勝利[1]、サーサーン朝の事実上の滅亡[2]
交戦勢力
正統カリフ サーサーン朝
指導者・指揮官
サアド・イブン・アビー・ワッカース
ニハーヴァンドの戦い(ニハーヴァンドのたたかい、阿: ????? ??????)は、642年にニハーヴァンド(現在のイランのテヘラン南方)でサーサーン朝と正統カリフ時代のイスラーム勢力(アラブ軍)との間に起こった戦い[7]である。皇帝ヤズデギルド3世のサーサーン朝軍はアラブ軍に敗退し、サーサーン朝は事実上滅亡した。この戦いは、イスラーム教徒の間では「勝利の中の勝利」と呼ばれている。 当時、イスラーム成立後の大征服の時代で、正統カリフの下にアラブ・ムスリム軍はアラビア半島から領地を拡大していた。一方、ホスロー2世時代のサーサーン朝は、東ローマ帝国との長い戦いやその後の王位争いなどで国力を消耗しており、新興のアラブ軍の前にサーサーン朝は敗退を重ねた。オリエントの大国だったサーサーン朝の弱体化は覆うべくもなく、636年にメソポタミアでサーサーン朝と正統カリフ勢力の大軍同士がぶつかったカーディシーヤの戦い(636年)で、イスラーム軍に決定的な敗北を喫した。サーサーン朝の本拠地イラクへ進出したアラブ軍により首都クテシフォンは陥落し、ザグロス山脈を越えてイラン高原に侵攻したアラブ軍とサーサーン朝軍の間で642年、ニハーヴァンドの戦いが起こった。 アッバース時代のウラマー、歴史家で『諸使徒と諸王の歴史』を著したタバリーによると、ヤズデギルド3世の重臣のペーローズ・ホスロー ニハーヴァンドの戦いの経緯については諸説唱えられている。一説によると、アラブ軍は、第2代正統カリフのウマルが死んだという偽の情報を流してサーサーン朝軍をおびき出し、勢いづいたサーサーン朝軍騎兵がなし崩し的に追撃を開始してアラブ軍を追ったところを隘路に誘い込んで包囲し殲滅した。 他方、上記のような策略によってでなく、アラブ軍は純粋に戦術を駆使してサーサーン朝軍を撃破したという説も有力である。
背景
両軍の兵力
戦闘