ニック・ハイドフェルド
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ニック・ハイドフェルド
ニック・ハイドフェルド (2019年)
基本情報
フルネームニック・ラース・ハイドフェルド
Nick Lars Heidfeld
略称表記HEI
国籍 ドイツ
出身地同・メンヒェングラートバッハ
生年月日 (1977-05-10) 1977年5月10日(47歳)
F1での経歴
活動時期2000-2009,2010-2011
所属チーム'00 プロスト
'01-'03,'10 ザウバー
'04 ジョーダン
'05 ウィリアムズ
'06-'09 BMWザウバー
'11 ロータス・ルノーGP
出走回数185 (183スタート)
タイトル0
優勝回数0
表彰台(3位以内)回数13
通算獲得ポイント259
ポールポジション1
ファステストラップ2
初戦2000年オーストラリアGP
最終戦2011年ハンガリーGP
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ニック・ラース・ハイドフェルド(Nick Lars Heidfeld, 1977年5月10日 - )は、西ドイツメンヒェングラートバッハ出身のレーシングドライバー。日本では「ハイドフェルド」と表記されることが多いが、ドイツ語の発音では「(ラルス・)ハイトフェルト」に近い音となる。

F1ドライバーで、2000年から2011年までF1に参戦していた。元ドイツF3ドライバーのスヴェン・ハイドフェルドは実の弟。
プロフィール

ドイツ国内のカート選手権でチャンピオンを獲得するなど活躍した後、1994年にドイツ・フォーミュラ・フォード1600にステップアップ、1996年にドイツF3選手権(英語版)に参戦を果たし、2年目となる1997年にタイトルを獲得した。1998年の国際F3000選手権に参戦。初年度ながらファン・パブロ・モントーヤとタイトル争いを演じる。が、最終戦で燃料規定違反が発覚し、ペナルティを受け最後尾スタートとなる。これでチャンピオンを逃しシリーズ2位で終わる。

1999年マクラーレンのテストドライバーを務める傍ら、引き続き1999年の国際F3000選手権に参戦。4勝を挙げチャンピオン獲得[1]、冷静なレース運びから「コンピューター・キッド」、「クイック・ニック」と称される。この年はメルセデスの育成プロジェクトであるメルセデス・ジュニア・チームより、ワークスドライバーとしてル・マン24時間レースにも参戦したが、メルセデス・ベンツ・CLRが宙を飛ぶ事故を三度も起こしたことによりチームの判断で全車リタイアとなった。

2000年から2011年までF1に参戦。183戦を戦い、最高位2位。

2012年以降はF1を離れ、世界耐久選手権(WEC)にレベリオン・レーシングから参戦。その他2013年にはアメリカン・ル・マン・シリーズに、2014年はフォーミュラEにも参戦している。
F1での経歴
2000年(プロスト)

2000年よりメルセデスの契約下、国際F3000選手権のタイトルを引っさげてプロスト・グランプリからF1デビュー。メルセデス・ジュニア・チーム出身として期待されたがチームは混迷期にあり、ハイドフェルドはチームメイトのジャン・アレジとの接触など精彩を欠き、全く目立つことなく無得点に終わった。イギリスF3選手権から飛び級でグランプリデビューした同期のジェンソン・バトンに完全に話題をさらわれた形となってしまった。
2001年 - 2003年(ザウバー)

2001年ザウバーへ移籍。開幕戦オーストラリアGPで初入賞を果たし、第3戦ブラジルGPでは3位初表彰台を獲得するなど、チームメイトの新人キミ・ライコネンと共にザウバーのコンストラクターランキング4位獲得に貢献した。シーズン末、ミカ・ハッキネンの休養宣言(後に引退に変更)によりメルセデスがエンジンを単独供給するマクラーレンのシートに空席ができたが、それを手にしたのはメルセデス契約下にあったハイドフェルドではなく、新人ながら印象的な速さをみせたライコネンであり、ハイドフェルドは大きな失望を味わうことになった。

2002年には新人のフェリペ・マッサと組む。4回の入賞を果たしたが、得たポイントは7ポイントと前年より下回った。2003年もザウバーに残留した。ベテランのハインツ=ハラルド・フレンツェンと組んだ。レギュレーションでポイント制が8位までと広がった為、辛うじて3回の入賞を果たすも、フレンツェンには及ばなかった。2004年カナダGPにて
2004年(ジョーダン)

2004年ジャンカルロ・フィジケラとトレードされる形でジョーダンへ移籍。チームは末期的な状況で戦闘力の低いマシンであったが、モナコGPカナダGPで入賞を果たした。
2005年(ウィリアムズ)2005年アメリカGPにて

2005年アントニオ・ピッツォニアとのレギュラーシート争いを経てウィリアムズへ移籍した。チームメイトにはラルフ・シューマッハの後任として加入したマーク・ウェバーとコンビを組むこととなった。第2戦マレーシアGPで自身2度目の3位表彰台、第6戦モナコGPで自己最高位の2位、第7戦ヨーロッパGPでは搭載燃料を軽くした戦略によるものではあったが、初のポールポジション獲得。決勝は3位を走行中、ラスト1周、首位ライコネンが1コーナーでタイヤトラブルによりクラッシュ、リタイヤとなると、労せずして2戦連続2位フィニッシュした。開幕前はセカンドドライバー的な見方が多かったが、ウェバーに対してほぼ互角の成績を残したといえる。イタリアGP前のモンツァ・テストでのクラッシュの影響により、イタリアGP・ベルギーGPを欠場し、復帰を目指したトレーニング中に再度負傷してしまい、結局ブラジルGP以降の残り3戦全てを欠場することとなり、ウィリアムズの戦闘力低下と相俟って「尻すぼみ」の印象を与えることとなった。ハイドフェルド離脱によりラスト3戦はアントニオ・ピッツォニアがシートに収まった。
2006年 - 2009年(BMWザウバー時代)2007年カナダGPにて

2006年よりドイツの自動車メーカーでありF1にエンジン供給を行ってきたBMWが中堅コンストラクターであるザウバーの株式を取得し、BMWザウバーとして参戦する。


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