ニセ「左翼」暴力集団
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この項目では、日本共産党用語について説明しています。そのように呼称される団体については「日本の新左翼」をご覧ください。

ニセ「左翼」暴力集団(ニセさよくぼうりょくしゅうだん)とは、1955年7月の日本共産党第6回全国協議会(6全協)における51年綱領による暴力革命唯一論路線からの転換への反発で、日本共産党支持から離脱して暴力革命路線継続した日本の新左翼・新左翼党派を指す日本共産党による独自用語。日本共産党用語であり、日本共産党派の人々に使用されている[1][2][3]。「日本の新左翼」にもトロツキー・トロツキストに批判的な人もいたが、日本共産党は「日本の新左翼」全体に「トロツキスト」と烙印を押していた[3]。マスコミでは「新左翼」とそのまま呼称することもあるが[4][5]、「極左」「過激派」「極左過激派」との呼称も用いる[5][6]警察では「過激派」だけでなく、「極左暴力集団」との呼称も用いられている[2][3]
概要

日本共産党を含むコミンテルン系譜の各国の共産党は、ソ連(スターリン)の指導を受ける共産党と対立する共産主義者に対し、「トロツキスト」・「修正主義[7]・「左翼日和見主義者」[8]などの用語で批判していた。そのため、1930年代以降は日本共産党と対立する共産主義者は「トロツキスト」または「トロツキスト暴力集団」などが使用されていたが、スターリン批判以降は「トロツキー」への批判が弱まったことで、1980年代後半以降から日本共産党は新左翼に対するの呼称として「ニセ『左翼』暴力集団」や「ニセ『左翼』集団」という表現を主に使用している[9]

1950年から旧ソ連からの干渉で党が分裂し、党内主流派となった所感派が、旧ソ連や中華人民共和国と連携し、1951年に51年綱領を採択し、暴力革命唯一論を取った火炎ビン闘争など過激な活動を行った。そのため、日本国民の信頼を失い、1949年に35人いた日本共産党の衆議院議員は、1952年10月の衆院選で公認候補が全員落選する事態になった[2][10]。そのため、党内主流派が入れ代わり、国際派が主導権を握った日本共産党は、1955年の第6回全国協議会で、武装闘争路線を「誤りのうちもっとも大きなものは極左冒険主義である」と自己批判した。しかし、1955年以降も暴力革命路線継続を訴える人々が日本共産党から離脱し、新左翼となった[2]

1980年代以降の日本共産党は、以前まで「トロツキスト」と呼んで批判していた新左翼の党派や集団(例えば革命的共産主義者同盟全国委員会(中核派)や日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派(革マル派)、革命的労働者協会(革労協))に対して、「ニセ「左翼」暴力集団」との用語を使用するようになった。日本共産党は、これらは日本共産党に打撃を与える目的で「共産主義」を偽装する暴力集団であり、権力が影で支援している(「ニセ『左翼』泳がせ論」)、と主張している[11]

1980年代半ばまで、日本のマルクス主義陣営は、日本社会党左派労農派マルクス主義)、日本共産党、新左翼の3つのグループが存在し、互いに競い合っていた[3]
歴史
日本共産党の51年綱領による暴力革命唯一論路線転換以降の「新左翼」への批判的呼称

1950年に日本共産党内部で分裂した「所感派」と「国際派」が互いを「トロツキスト」と罵り合っていた。所感派が党の主導権を獲得し、1951年に51年綱領を掲げ、日本共産党は暴力革命唯一論路線を取ることを決定し、各地でテロを行った。これは従来の投票層を含めた世論の支持を大幅に減らし、選挙で公認候補が全員落選する事態となった。そのため、昭和30年(1955年)7月の第6回全国協議会(6全協)で日本共産党が武装闘争方針の放棄を決議した。しかし、日本共産党の路線転換に反発し、暴力革命唯一論を支持する人々は新左翼と呼ばれるようになった[2]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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